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山の日レポート

山の日レポート

自然がライフワーク

『円空の冒険』諸国山岳追跡記―総集編(後編)   清水 克宏

2025.12.15

全国山の日協議会

円空関東に向かう

 円空は、大峯山中での厳しい修行を終えると、自らの命を護法に捧げる決意のもと、本格的な遊行活動に入り、まず尾張国や美濃国で爆発的な造像活動を行います。荒子観音寺(名古屋市)の1,250体あまりの諸像に代表されるような、何ものにもとらわれない力強さや、心に染み入る微笑みをたたえた名作がこの時期に数多く造られました。
 そして、延宝7(1679)年7月5日には、天台宗寺門派の総本山である園城寺(通称三井寺)の尊栄から『佛性常住金剛宝戒相承血脈』を承けています。寺門派の園城寺は、顕教(法華経を根本仏典とする天台法華の教え)、密教に加え、修験道の3つの教えを兼ね備えているとされ、天台宗系修験である本山派の本山・聖護院も寺門派に属していました。そして、「修験者としての山岳修行を積み、諸国を遊行しながら造像し祈祷する天台宗の僧」として、関東に向け旅立ちます。円空はすでに50歳になろうとしていました。
 関東で円空の像が最も多く残るのは、武蔵国だった埼玉県で、170体あまりの像が確認されています。円空は、同国の本山派修験の中心寺院であった不動院(廃絶)において本尊不動三尊像を造顕しており、残された像の約半数が、その末寺などに伝わった由来を持ちます。その他のこの時期の関東方面の像は、群馬県17体、栃木県16体、茨城県3体、長野県3体にとどまりますが、像の所在地や、背銘、残された和歌などから、筑波山、赤城山・榛名山・妙義山、日光山、浅間山などで修行をしたことが分かります。中でも、日光山は、滝尾神社(栃木県日光市所野)に伝わる稲荷大明神立像の背銘に、「日光山一百廿日山籠/稲荷大明神/金峯笙窟圓空作之」と墨書しており、円空の厳しい山籠修行をしのばせ、特筆されるべきものです。

画像1:所野滝尾神社 (日光市歴史民俗資料館寄託) 稲荷大明神立像 出典:『微笑みに込められた祈り 円空・木喰展』(2015年)図録

日光山での山籠修行

 日光山は、下野国の僧・勝道(735~817年)が開いた、男体山を中心に日光連山に展開する関東地方最大の山岳霊場です。男体山はかつて二荒山(ふたらさん)と呼ばれ、観音菩薩が降り立つとされる伝説の山・補陀落山と重ね合わせて信仰されてきました。勝道は修行の場を求め大谷川(だいやがわ)を遡行し、天平神護2(766)年、その北岸に紫雲立寺を建て、翌神護景雲元(767)年にのちに二荒山神社となる祠を建て、この地を拠点に、二荒山登頂をめざします。しかし、雪深く峻険で、荒天にも見舞われ2度失敗、天応2(782)年3月、命を捨てる覚悟でようやく15年越しで登頂に成功し、中禅寺湖畔に中禅寺の前身となる神宮寺を建てます。中禅寺の寺伝によれば、延暦3(784)年、勝道上人が湖上に千手観音菩薩の姿を感得し、桂の立木にその姿を刻み、同像を本尊として開かれたとされ、「立木観音」という通称で知られます。男体山は千手観音菩薩が化身した山として信仰されています。
 日光山の山岳修験は、勝道に始まるとされますが、鎌倉時代に将軍源実朝の信任を得て日光山別当についた辨覚により熊野修験の影響を受けながら大成されました。辨覚は実朝の遺志を継ぎ大峯・笙ノ窟の本尊である銅造の不動明王立像を奉納しています。笙の窟 (2か所)は円空も修行した場所で、滝尾神社の稲荷大明神立像に、「金峯笙窟圓空作之」と墨書しているのは、このような所縁(ゆかり)を意識してのものでしょう。そして室町末までに修験者による冬峰・華供峰・補陀落夏峰・惣禅頂と呼ばれる冬春夏秋4つの入峰修行、総称して「三峰五禅頂」が完成されました。修験者は山伏とも呼ばれますが、これは山に伏し抖擻 (とそう:心身を浄化し雑念を払い心を集中する行)する者という意味があり、命がけの厳しい修行がうかがわれます。
 日光山は山岳霊場として信仰を集め、特に中世から戦国時代にかけては修験が勢力を持ち、最盛期には三百余坊を数えたといいます。しかし、天正18(1590)年に豊臣秀吉が小田原北条氏を下した小田原合戦において、僧徒が北条氏側に加担したため、秀吉の怒りにふれ、日光山はいったん衰微し、修験の伝統も途絶えました。これを復興したのが、徳川家康の命により日光山貫主となった天台僧天海です。
 そして、徳川家康の遺言に従い、二代将軍秀忠が天海に命じ、駿河国久能山から日光に改葬して東照宮が造営されました。現在の威容は、三代将軍家光が命じた寛永の大造営によるもので、円空も、そのきらびやかな堂宇を目の当たりにしたことでしょう。
 日光山の入峰修行のうち、冬峰・華供峰・惣禅頂は天海の再興により復活しました。しかし、5月から7月までの約62日間で日光連山全体、つまり冬峰と惣禅頂のコースを含み、さらに西の日光白根山まで足を延ばす最も厳しく長大な補陀落夏峰だけは、復活することはありませんでした。犠牲者が多かったこともあるようですが、天海によって再興された修験は、本来の抖擻性を失ったもので、東照宮を権威づける行事の一部に組み込まれてしまったことが、最大の理由と考えられます。
 そのような日光山において円空が行った「日光山一百廿日山籠」、すなわち120日にも及ぶ山籠修行とはどのようなものか調べていくと、日光山輪王寺光樹院の住職高岳との関わりに鍵があることが分かってきました。円空作の中禅寺本尊の立木観音を模した千手観音菩薩立像(鹿沼市廣濟寺蔵)には、「傳燈沙門高岳法師/天和二戌九月九日圓空刻之」と墨書され、天和2(1682)年9月に、円空が高岳のために造像していることが分かります。高岳は、元禄7(1694)年には男体山の登拝口である中禅寺の上人に任じられていますから、山岳修行も相当重ねていたと推測されます。円空は、山籠修行の後と考えられる同年9月に、高岳からかずかずの密教の秘法を伝授されており、その伝授書が岐阜県郡上市美並町の星宮神社に伝わります。そして、勝道の日光開山の由緒を書き記した『日光開山覚』も同社に持ち帰っています。
 さらに興味深いのは、最近高岳が自刻した十一面観音菩薩立像が、輪王寺で発見されたことです。像内の「奉供養 十一面觀自在尊法華經讀誦爲慈母妙性菩提而巳 元禄六酉八月廿九日 傳燈大僧都高岳」という墨書から、高岳が元禄6(1693)年に亡き母の菩提を弔うために造った像であることが判明しました。円空の造った中観音堂の十一面観音菩薩立像と像容が似るばかりか、像内納入品を納めていること、そして造像の背景に法華経の女人成仏の思想があることが共通し、円空が造像し・高岳が秘伝を教えるだけにとどまらず、二人は信仰の根源で深い信頼関係を築いていたことがしのばれます。
 円空は、星宮神社に残した祭文風和讃『粥川鵼縁起神祇大事(カイガワユエエンギジンギダイジ)』に、登ったと考えられる関東の山々を詠み込んでいますが、日光については、男体山ではなく、「白根嶽形見」と、日光白根山を詠んでいます。同山は、慶安2(1649)年に有史以来の噴火で新火口が形成されており、噴火間もない蝦夷の有珠山や内浦岳(北海道駒ケ岳)に登っている円空は、強く惹かれたことでしょう。さらに、長大な夏峰のルートも、関東から帰還後、地理的に空白地帯であった飛騨山脈南部の高峰に単独登頂していった円空ならたどれたはずで、当時廃絶されて久しい補陀落夏峰のうち、少なくとも日光白根山を含む主要部分を踏破したのではないでしょうか。だからこそ、高岳は円空に敬意を表し、深い関わりを築けたと思われてならないのです。

画像2:円空をしのび、道なき補陀落夏峰ルートをたどる。 錫ヶ岳~日光白根山の稜線から補陀落浄土に擬せられた男体山、中禅寺湖を望む

円空飛騨に向かう

 円空は、関東から天和3(1683)年頃には、美濃・尾張地方に戻り、翌貞享元(1684)年には荒子観音寺住職円盛から『天台円頓菩薩戒師資相承血脈』を受けています(弥勒寺蔵円空愛用経本『妙法蓮華経二』裏面墨書)。そして翌2年から、飛騨国全土を覆いつくすようにおびただしい像を造顕し、両面宿儺像など力の籠った64体の円空像を伝える、本尊が千手観音菩薩像である真言宗千光寺などを拠点に、当時蝦夷以外では地理的に解明されていない数少ない地帯である飛騨山脈南部周辺の山岳に次々と挑みます。飛騨を訪れた時期については諸説ありますが、明確に時期が特定でき、山岳に挑んだのは、貞享2~4(1685~1687)年頃と、元禄3(1690)年、同4(1691)年で、円空が50歳代半ばから60歳に至る時期にあたります。円空が、64歳の生涯の終わりが近づく時期に、飛騨の地を訪れ、これほど超人的な活動を行ったのはなぜだったのでしょう。
 円空は、かつては飛騨国きっての天台宗の有力寺院だったにもかかわらず、戦国時代を経て当時は無住の草堂となっていた清峯寺(高山市国府町鶴巣)で、気迫のこもった千手観音菩薩、龍頭観音菩薩、聖観音菩薩の大作を造顕しています。そのうち特に注目されるのは、中尊となる千手観音菩薩立像の膝前に、聳える岩山に立つ僧形の像が彫られていることです(画像3)。この僧形像が誰かについては、諸説ありますが、前述のように、円空は、日光で中禅寺立木観音を模した千手観音菩薩立像を造顕しています(現廣濟寺蔵)。立木観音は、勝道が、「山頂に至りて神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福(さいわひ)を饒(ゆたか)にすべし」(空海撰『沙門勝道歴山瑩玄珠碑并序」)と祈念し15年間の労苦を経て二荒山(男体山)に登頂・開山したのち、中禅寺湖の湖上に千手観音菩薩が現れたものを彫り写したものと伝えられます。清峯寺の千手観音立像も、立木観音像と共通する像容ですから、岩山は二荒山、僧は勝道を表し、円空も命を賭け、若き日に伊吹山から眺めた飛騨の高峰の頂きに立って、神仏を供養し、人々の幸いを祈る決意を、この像に込めたのではないでしょうか。

画像3:清峯寺蔵 千手観音菩薩像(124.0㎝)、同像の岩山と僧形像(部分拡大)

飛騨での超人的な山岳修行

 双六川最奥にあり、今は廃村になった金木戸集落の観音堂には、六面を載せた観音菩薩(96.5㎝)、今上皇帝(69.5㎝)、善女龍王(69.0㎝)の3像が伝わります(現高山市上宝町桂峯寺蔵)。そのうち観音菩薩像の背銘には「頂上六仏 元禄三年/乗鞍嶽 保多迦嶽(穂高岳) □御嶽(於御嶽と宛てて笠ヶ岳と考えられる)/伊応嶽(焼岳の飛騨側の呼称) 錫杖嶽 二二五六嶽(四五六嶽:双六岳)/□利□乃六處 本地處□権現」と記され、今上皇帝像の背銘には「元禄三年庚午九月廿六日/今上皇帝 当国万仏/□□仏作已」と記されています。「□□仏」を「十マ」と呼んで、当国(飛騨国)で1万体、10万体の像を作り已(おわ)る、と読む説があります。
 金木戸集落から遡行していくと双六川は金木戸川、双六谷と名を変え、双六岳、そして笠ヶ岳へと至ります。円空より224年後の大正3(1914)年に、日本山岳会を創設した小島烏水らが笠ケ岳に登頂のもこのルートです。円空の冒険を追体験するために、今年9月に、同ルートを遡行しましたが、地図もコンパスも天気予報もない時代の単独行が、とてつもないことだったと体感できました。

画像4:金木戸川・双六谷の遡行。水量が豊富で淵や大岩も多い。

 円空が乗鞍岳に登ったことについては、飛騨代官長谷川忠崇が著した『飛州志』の「乗騎(鞍)権現」の項に「昔ハ俗魔所ト稱シテ人ノ至ル事曾テ無カリシガ僧圓空ト云フ人此山中ニ籠リ居テ若干ノ佛像ヲ造リ池底ニ沈メテ供養セリ 自是以来池ノホトリマデ人ノ登山スルコトヲ得タルト云ヘリ」と記されます。また、笠ヶ岳に登ったことについては、槍ヶ岳を開山した播隆の著した『迦多賀嶽再興記』に、「元禄年中圓空上人登頂、大日如来ヲ勧請シ奉リ阿観百日密行之霊跡也」と、円空が百日間山籠修行を行った旨が記されています。そして、穂高岳、錫杖岳、双六岳の山名については、円空の六面の観音像の銘文が文献初出です。円空はこれら六岳と、信濃国の木曽谷側の山麓に貞享3(1686)年の銘のある像の残る御嶽に登ったと考えていいでしょう。円空の山籠は、夏季百日程度と考えられので、これを諸文献と照らし合わせると、飛騨での山岳修行は、表1のようだったと推定されます。

表1:「円空の飛騨での山岳修行の推定時期」

旅の終わり

 円空は、元禄3年までに、飛騨において造像においても、山岳修行においても、超人的ともいえる達成をなしとげています。それにもかかわらず、翌4年にも飛騨を訪れており、残された像の分布から、美濃や尾張に近い南西麓の阿多野郷から乗鞍岳に登拝するルートを求めたと推測されます。しかし、この試みはうまくいかなかったようで、登頂の証しとなる像は確認できず、小瀬集落の白山神社に伝わる釈迦如来像の背銘には、「出山釈迦牟尼如来」と墨書されています。「出山釈迦」とは、「肉体を痛めつけるだけの苦行からは真の悟りを得ることは出来ないことを知り、失意のうちに山を下りる釈迦」のことで、山岳修験に励んできた円空の像名としては極めて異例といえます。この年、円空は60歳、心はさらなる高みを求めていても、過酷な山岳修行の連続で、肉体はすでに限界が来ていたのではないでしょうか。
 円空は、長良川に面した美濃地方の豪族身毛津(むげつ)氏の氏寺と推定される古代寺院弥勒寺を再興し自らの寺としています。そして、貞享年間と、元禄年間の飛騨行脚の間の時期に当たる、元禄2(1689)年8月9日、園城寺の尊栄大僧正から「被召加末寺之事」の書面を受け、弥勒寺を園城寺内霊鷲院兼日光院末寺に召し加えてもらっています。円空の生涯を振り返ると、人々を救済する面では、法華経や大般若経を信奉し、観音菩薩像を中心に、さまざまな像を造顕しています。その一方、人々を救う資質を身に着ける山岳修行の面では、終生弥勒菩薩の信仰に貫かれていました。伊吹山も、大峯山も弥勒信仰の山で、園城寺の本尊も弥勒菩薩です。
 弥勒菩薩は、釈迦如来の次にブッダとなることが約束された菩薩で、釈迦の入滅後56億7千万年後の未来に悟りを開きこの世界に現われ、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度するとの信仰がありました。円空は、「幾度も たへても立る 三會の寺 五十六憶 末の世まても」という歌を残しています。晩年になって弥勒寺を再興したのは、そこに止住するためというより、人生の最後に向けての準備だったように思われてなりません。

最後の山籠修行の地・高賀山

 飛騨から戻った円空は、高賀山(1,224m)で、最後の修行に入ります。高賀山は、長良川の支流の中でもひときわ清らかなことで知られる板取川のさらに支流、高賀川源流の山で、山中には大規模な不動の岩屋と禊のできる沢があり、山麓には白山信仰のルーツを持つ高賀宮が鎮座し、大峯修験の影響下にありましたから、山籠修行には格好の場だったはずです。さらに、円空は、山上に祀られた、奥宮である峯稚児宮(峯児権現、峯之権現)に心を寄せていたということも当地を選んだ大きな理由の一つと考えられます。峯稚児宮は、子供を護るカミとしての信仰があり、円空は3体の像を残しているほか、高賀山周辺を詠んだ和歌13首のうち、12首までもが峯稚児宮を詠んだものです。
 円空は、荒子観音寺の木っ端で造られた千余体の仏を納めた厨子の裏面に「是也此之 クサレルウキ々 トリアケテ 子守ノ神ト 我盤成奈里 (これやこの くされるうきき とりあげて 子守の神と 我は成すなり)」と墨書するなど、子供の守りにとりわけ心を砕いています。円空は、木曽川と長良川に挟まれた土地に生まれ、頻発した洪水による多くの人々の死を目の当たりにし、とりわけ自分と同じような子供たちの死に心を痛めたことでしょう。その像に見られる、誰の心にもすっと入り込む微笑みは、「かわいい」だけではなく、数知れぬ悲しみを通して生まれたものでした。
 円空は、高賀神社に旅の伴(とも)であった錫杖を納め、そして、修行の一環として詠んだ多くの和歌の歌稿を、大般若経の補修を行った際、表紙の裏紙として貼り付け、さらに「峯児」と彫られた硯も同社に納めます。さらに、畢生の大作十一面観音、善女龍王、善財童子の三尊像などを造顕し、最後に台座に「釜且 入定也」と彫った歓喜天像をもって造像も終わりとしています。そののち約3年間消息が絶たれているのは、おそらく入定に向けた千日の修行を行っていたからだと推測されます。
 弥勒寺に近い長良川の河畔には、かつて樫、藤などの鬱蒼と繁った場所があり、円空の入定した場所と言い伝えられてきました。ただし、弥勒寺に、「當寺中興圓空上人 元禄八乙亥天七月十五日」と記された墓碑が残るだけで、江戸時代の文献にも入定の記載は残っていないのが実情です。しかし、その生涯が弥勒信仰で貫かれていたこと、造像、山岳修行、作歌、祈祷とすべての面で極みに達したとの自覚があっただろうこと、61歳の時に歓喜天という極めて呪力の高い像に「釜且 入定也」と記し、そののち千日の修行を行っていたと推測されることなどから、円空はやはり64歳での入定をめざしていたと考えていいのではないでしょうか。

円空とは何者だったのか

 円空は、正式な僧でもなく、修験者(山伏)でもない、「何者でもない」存在のまま、各地を巡り、生涯12万体ともいわれる膨大な像を残し、命がけの過酷な山岳修行をなしとげました。50歳近くなって天台宗寺門派の総本山園城寺で『佛性常住金剛宝戒相承血脈』を承け「修験者としての山岳修行を積み、諸国を遊行しながら、祈祷し造像する天台宗寺門派の僧」という形をとるようにはなりますが、江戸時代前期という、社会統制が強化され、宗教も寺請制度をはじめ体制の中に組み込まれ固定化していく息苦しい時代において、円空ほど破格な自由人は、ほかに見当たりません。
 従来の日本登山史においては、平安時代に広まり、中世を経て戦国時代に最も盛んとなった山岳信仰・山岳修験の記述から、18~19世紀の市民社会の形成に伴う富士講や御嶽講などの庶民の霊場登拝の隆盛、その延長線上にある文政11(1828)年の浄土宗の僧播隆による槍ヶ岳開山などの記述までは、空白になっていました。しかし、今回ご紹介してきたように、円空は、白山を開いた泰澄や、日光山を開いた勝道などにつながる、最後のオリジナルな山林抖擻を行った山岳修行者といえます。その一方、庶民と深く関わり合い、苦しみや願いに寄り添う造像を広く行っており、槍ヶ岳を開山した播隆や、御嶽を庶民に開いた覚明が円空の像を念持仏とするなど、彼らの先達ともなりました。円空の冒険を追跡し、行跡を列挙すると、これまで日本登山史で空白とされていた約200年の時を埋め、これを繋ぐ重要な存在だったことが浮かび上がります。
 しかも、円空はこれらの冒険的な登攀を伴う登山を、宗教組織の一員としてではなく、単独の自由人として行ったわけですから、19世紀後半に始まる西洋のアルピニズムのはるか先を行く存在だったともいえるでしょう。円空の造像が、西洋がバロック時代であった頃に、独力で伝統的彫刻を解体し、20世紀初頭のピカソなどのキュビズムに先行する抽象芸術の域に達していたと評価されているのと同様、登山史においても正当な評価がなされていいのでは、と思われてなりません。
                                       


<参考文献> 宮家準氏著『修験道組織の研究』(1999年 春秋社)
       小島梯次氏著『円空・人』(2021年 まつお出版)
       池田正夫氏著『日光修験三峯五禅頂の道』(2009年 随想舎)
      
<注  意> 画像の無断転載を固く禁じます。

画像5:千光寺蔵 円空画像

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