山の日レポート
自然がライフワーク
『円空の冒険』諸国山岳追跡記(12)【茨城県編】 清水 克宏
2025.03.01
茨城県は、江戸時代まで常陸国、南西部は下総国の一部でした。同県には、現在3体の円空像が確認されており、2体は下総国だった古河市、あと1体は常陸国だった笠間市に伝わります。また、円空が和歌を残していることから、同県を代表する霊山・筑波山周辺で修行をしたことがうかがわれます。
茨城県の円空の手がかりは、このわずか3体の像と和歌などにとどまりますが、関連文献を探りながら現地を踏査していくと、円空の謎の多い生い立ちと終焉にまつわる重要な鍵に行き当たりました。
茨城県に残る円空の手がかり
------------------------------------------------------------------------------------------------------
茨城県に3体残る円空像のうち、2体はかつて下総国であった古河市の光了寺と子ノ神社に所蔵されています。日光街道の中田宿にある光了寺の像は旧家に伝わった不動明王像(像高43.5㎝)で、同街道の古河宿にある子ノ神社の像は合掌像(22.4㎝)です。
また、笠間市の月崇寺に伝わる円空の観世音菩薩立像(43.5㎝)は、背銘(背面の銘文)に「萬山護法諸天神 御木地土作大明神 観世音菩薩 延宝八年庚申九月中旬 秋」という円空の筆跡の墨書があることで知られ、円空が延宝8(1680)年9月中旬には、常陸国を訪れていたことが分かります。これは関東で確認されている最も早い時期の記録となります。
そして、円空は岐阜県関市高賀神社の大般若経の裏紙に、筑波根の 峯の木の間に 降(ル)雪ハ 梢(ニ)結ふ 花かとぞミるという和歌を残していることから、少なくとも同年の冬まで滞在していたことがうかがわれます。
おそらく円空は、関東における拠点であった武蔵国幸手不動院(埼玉県春日部市小渕)周辺から日光街道を北上し、下総国の中田宿、古河宿などを経て、同街道の小山宿から水戸に向かう結城街道に入り、関東を代表する霊山である筑波山方面を目指したのでしょう(図1)。筑波山周辺には加波山、足尾山など多くの修験の山が連なります。
図1:茨城県周辺の江戸時代の街道と円空の行跡
笠間市月崇寺の観世音菩薩立像については、昭和55(1980)年の赤外線写真撮影で、先に触れた「萬山護法諸天神 御木地土作大明神 観世音菩薩 延宝八年庚申九月中旬 秋」という背銘が確認されました。
すると、発見された銘文の、「御木地土作」を「御木地士作」と読みかえ、円空は轆轤(ろくろ)細工の職人である木地師出身であることを自ら明らかにしているとし、「御木地士作大明神 観世音菩薩」とは、木地師の祖神である大皇(おおきみ)大明神の本地仏である観世音菩薩の意味だとする説が、仏教民俗学者の五来重氏などから出されました。さらにこれを拠り所として、同氏は、円空が極初期の像を多く残した岐阜県美並村(現郡上市美並町)の木地師集団出身で、同村の星宮神社の別当寺の真言宗粥川寺で得度したとの説を展開されました。この新説は、円空が「遊行聖(ゆぎょうひじり)」であるとの同氏の認識を前提にしているものです。そして、円空が美並村を離れ、当時蝦夷と呼ばれた北海道に渡ったのも「遊行のため」とされます。
しかし、本追跡記(1)【北海道編】で触れた通り、五来氏が拠りどころとされている遊行僧に係る文献類は、18世紀に入ってからの商人に交易を代行させる「場所請負制」に移行してからのもので、円空が訪れた当時は、遊行などできる状況にはありませんでした。
松前藩の史料を同藩家老松前広長が集大成した『福山秘府』の「諸社年譜並境内堂社部」には、寛文5(1665)年、日本海側の11箇所に新たに堂が建造され、これらを含む15の堂に「神体円空作」の像が置かれたことが記録されています。当時、内浦岳(北海道駒ケ岳)や有珠山が、有史以来の大噴火を起こしたりする中で、円空は、有珠善光寺蔵観音菩薩坐像の背銘に「江州伊吹山平等岩僧内」と記したように、平等岩をシンボルとする山岳修験の霊山・近江国伊吹山で修行を積んだ山岳修験僧として、地を鎮める祈りを込めて神体像を造顕することを請われ、松前藩を訪れたのだと考えられます。北海道広尾町禅林寺に伝わる同藩家老の蠣崎蔵人を願主とする観音菩薩坐像を造顕したのも、そのような背景があってのことでしょう。
やはり、江戸中期の寛政2(1790)年伴蒿蹊が刊行した伝記集『近世畸人伝』に「僧円空は、美濃国竹が鼻といふ所の人也。稚きより出家し、某の寺にありしが、廿三にて遁れ出、富士山に籠り、又加賀白山にこもる。」とあるように、当時尾張藩領だった美濃国竹鼻(岐阜県羽島市竹鼻町)周辺の、濃尾平野に木曽三川が集中する洪水の多発する地域に生まれ、北海道に渡る以前、相当期間修行を重ねた山岳修験僧ととらえないと、円空の行動を説明できない部分が多くあります。
ただし、月崇寺観世音菩薩立像背銘の「御木地土作大明神 観世音菩薩」は、どのような神仏を指し、なぜ円空は当地でこのような像を造顕したのかの疑問は残されたままなので、その謎を探るのが、今回の茨城県踏査の重要なテーマとなりました。
背銘のうち、「御木地」の部分は、「御本地聖観音」と墨書された例(関市池尻白山神社の神体の本地仏として造られた観音菩薩)があることから「御本地」と読んでいいと考えられます。そして、「土作大明神」は、神名と読めることから、「御木地土作大明神 観世音菩薩」とは、「土作大明神の本地仏であるところの観世音菩薩」という意味だと推定されます。
ただし、「土作大明神」なる神名は『神祇全書』などには載っていません。『古事記』に登場する土に関わる神としては、波邇夜須毘賣(ハニヤスヒメ)と、波邇夜須毘古(ハニヤスビコ)という一対の神があり、伊邪那美命(イザナミノミコト)が死ぬ間際の排泄物から、この二神が化生したとされます。『日本書紀』では、埴山(ハニヤマ)姫あるいは埴安(ハニヤス)姫という女神として登場し、祝詞では埴山姫とされます。土の神、土壌の神、肥料の神、農業神、あるいは陶器の神などとして広く祀られ、例えば、円空との関わりが深い尾張の熱田宮(熱田神宮)の正殿の背後にも「土神」の祠があり、その祭神も埴山媛命でした(『熱田宮舊記』(元禄12(1699)年))。
この、埴山姫を祀る神社が笠間周辺にないか文献で調べてみると、同市泉(旧岩間町大字泉)の愛宕山(293m)にある愛宕神社の祭神に、主祭神火之迦具土命(ホノカグツチノカミ)とともに、埴山比売命が併せ祀られているのが確認できました。ちなみに、愛宕信仰発祥の地である京都の愛宕神社にも両神が祀られています。そして、笠間周辺に、ほかには土の神の類を祀る社は見当たりませんでした。現在、円空作の観世音菩薩立像は、茨城県立歴史館に寄託されていますが、この像の由来、埴山姫との関わりなどを伺うため、笠間市の月崇寺を訪れました。
円空当時の常陸国は、水戸藩をはじめ、笠間藩、宍戸藩、土浦藩など多くの藩に分かれていました。月崇寺は、そのうち笠間藩領にあり、初代藩主松平康重が、慶長7(1602)年に結城街道沿いに、父松平康親の菩提を弔うために開基した浄土宗の由緒ある寺院です。同寺は、松平氏の後に藩主となった井上氏や本庄氏も菩提寺とし、円空が常陸を訪れた時期は、井上氏二代目藩主正任の治世にあたります。
円空像は、月崇寺のご住職の父上で、長野県から移られてきた先代の時に発見されたそうです。先代が寺の由緒をまとめられた冊子によると、本堂と庫裏は、円空の常陸来訪時より百年ほど後の寛政年間(1789~1801年)に再建、本堂前の秋葉権現の祠も同時期に新造されたものだそうです。
庫裏の玄関に見事な練り込みの茶碗と大壺が置かれていたので、うかがったところ、茶碗は父上の作で、笠間焼の陶芸家として人間国宝でいらっしゃったとのこと、そして大壺はご住職の作品で、やはり笠間を代表する陶芸家であられると知りおどろきました。円空の背銘「土作大明神」を、笠間焼の神とする説もあるようなのでお聞きすると、笠間焼は江戸中期以降に他所の陶工を招いて始められたそうで、この説には依れないことが分かりました。
ご住職に、愛宕山の埴山姫のお話をしたところ、かつて同寺の住職は、同市宍戸(旧友部町宍戸町)の光明寺の住職を兼ねていたことがあり、檀家から持ち込まれるようなことはあったかもしれないとのことでした。光明寺は、月崇寺から南へ約7㎞愛宕山寄りに位置し、天正元(1573)年、当時常陸を治めていた佐竹氏の武将・長谷川新衛門により創建され、江戸時代は笠間藩領ではなく宍戸藩領でした。愛宕山は、光明寺からさらに約6㎞南下した同市岩間(旧岩間町)が登山口になります。標高293mに過ぎませんが、平坦な土地にあるので立派に見え、山頂付近に愛宕神社が鎮座します。中世には岩間山と呼ばれる修験者の修行の場で、江戸時代までは女人禁制でした。土浦藩および宍戸藩に保護され、近世には、愛宕講が結成され、成田山をしのぐほどの参詣者がみられたといいます。円空像の背銘にある、「萬山護法諸天神」の「萬(満)山護法」とは、修験道の寺院や霊場や修行者を守る護法善神のことを指すので、この像が修験に関わって造顕されたと推定されることとも、辻褄(つじつま)が合います。
ただし、愛宕神社は、火伏の神ながら宝暦12(1762)年、文化13(1816)年、天保7(1836)年とたびたび火災に遭い本社拝殿などは何度も焼失しています。そのため、円空の観世音菩薩立像が同社に納められていたとは考えにくいのです。しかし、別当寺院であった山麓の真言宗の愛宕山勝軍寺密蔵院は女人堂とともに火災を免れたようで、その後、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈により廃寺となっています。
以上のような事情を考慮すると、月崇寺に伝わった円空作の観世音菩薩は、当初愛宕山麓の密蔵院あるいはその周辺で本地を観音菩薩とする土作大明神、すなわち埴山姫として造顕されたものが、廃仏毀釈を経て、宍戸の光明寺に納められ、さらに住職を兼務されていた月崇寺に移された可能性が高いのではないでしょうか。
画像1:月崇寺藏 茨城県立歴史館寄託 観世音菩薩立像(左)、同背銘(右)撮影:前田邦臣氏
円空は、おそらく稜線通しの修験者の道で繋がる、筑波山地の山々で修行したと考えられ、現在もこれらの山を繋ぐ登山道があるため、たどってみました(図2参照)。
図2:筑波山地周辺図
円空は、月崇寺観世音菩薩の背銘から、延宝8年9月頃、東側の愛宕山に入山したと考えられます。円空は武蔵国などに火伏のカミである愛宕権現の像を残しており、その霊力を身につけようと、まずはここで修行したのでしょう。
画像2:愛宕山(左)、山上の愛宕神社拝殿(右)
愛宕山の稜線から、板敷峠(112m)を経由して、西側の稜線に入ると、北から御嶽山、雨引山、燕山、加波山、丸山、足尾山、きのこ山、弁天山、筑波山の順にピークが連なります。そのうち加波山(709m)は、筑波山に次ぐ高峰で、山頂に巨石が林立する、いかにも霊山のたたずまいを持つ山です。現在は、本宮、中宮、親宮の三社がありますが、過去からそれぞれ別の勢力として争ってきた経緯があり、神仏習合であった当時、本宮は正憧院、中宮は文珠院、親宮は円鏡寺が別当寺院となっていました。愛宕山同様、天狗信仰の山でもありました。
画像3:加波山(左)、山上の巨石と加波山本宮
続く足尾山(628m)は、『常陸国風土記』では葦穂山(おはつせ山)とされていますが、平安時代に醍醐天皇がこの山の神社に祈願し足の病が治ったことから、「日本最初足尾神社」の勅額を下賜したため、「足尾山」に改称したといわれます。ここも修験の山で、天狗の山としても知られていました。
そして、筑波山地の最高峰筑波山は、西側の男体山(871m)と東側の女体山(877m)からなり、「西の富士、東の筑波」といわれるほど、武蔵野から親しく眺められる山でした。筑波嶺(つくばね)とも呼ばれ、『万葉集』にも詠まれ、古代は歌垣がおこなわれていたことでも知られます。
延暦年間(782~806年)法相宗の徳一が筑波山頂二社を再建し、神仏習合の筑波大権現としました。さらに、中腹に堂宇を建立して、本尊千手観音菩薩を安置して創建し、その後空海が入山し知足院中禅寺と号したといい、大御堂と通称されました。江戸時代には幕府、将軍家の祈祷を担い、多くの寺領を有しましたが、廃仏毀釈により大御堂は破却され筑波神社となり、現在の大御堂は昭和5年に再興されたものです。筑波神社の随身門は、かつての大御堂の仁王門で、往時をしのばせます。
円空の残した和歌、筑波根の 峯の木の間に 降(る)雪ハ 梢(に)結ふ 花かとぞミるは、冬の歌ですから、筑波山地で秋から冬に至るまで山籠修行をしたことがしのばれます。
円空は、関東の旅の後、郡上市美並町の星宮神社に「粥川鵼縁起神祇大事(カイガワヌエエンギジンギダイジ)」という祭文風和讃(修験者が唱える祭文風の讃歌)を納めています。その中に関東の地名が多く詠み込まれ、常陸国では、「筑波山形移(ツクバノヤマニカケウツス)」と、「流浮鹿嶋方(ナガレニウカブカシマガタ)」が詠まれます。円空は鹿嶋神の像も造っていますから、筑波山に近い土浦周辺から霞ケ浦を船で渡り、常陸国一ノ宮の鹿嶋神宮にも詣でたのではないでしょうか(図1参照)。
画像4:筑波山(左)、かつては大御堂の仁王門だった筑波神社随身門
今回の茨城県の踏査では、結城街道に重なる国道50号線を何度も往復しました。その道中で気になったのが、下館宿と羽黒宿の間に位置する天台宗の妙法寺(桜川市本郷)です。同寺は、関東唯一の、そして当時円空との関わりが深かった天台宗の僧として唯一の、舜義の即身仏(ミイラ)があることで知られます。
円空は、元禄8年(1695)自らの死期を予覚し、絶食して自らの寺である弥勒寺に近い長良川の河畔で入定したといわれ、円空入定塚は岐阜県の史跡になっています(ただし、円空が入定したと記された江戸期の文献は残されていません)。円空が入定したとするならば、どこでその思想・作法を学んだのか疑問に思っていたところなので、同寺に立ち寄り由緒などを伺いました。
寺伝によると、同寺は平安前期の延暦年間、広智国講師が草庵を結び、その後、第三代天台座主円仁がこの草庵を訪れ再建したとされ、このような経緯から円仁を開基としています。舜義は、鎌倉宝戒寺の第38代住職を務めた天台宗の重鎮で、『妙法寺古文書』によると延宝3(1675)年、67歳の時、弟子の舜暁が住職をしている妙法寺に隠居し、貞享3(1686)年78歳で示寂、遺体は内側をくりぬいた石仏の内部に納められましたが、87年後の安永2(1773)年、妙法寺48代住持亮順の夢枕に立った舜義が「我再び世に出て衆生を済度せん」というので石仏をあけると、即身仏になっていたので、舜義堂を建て祀ったとされます。同寺で伺ったところによると、舜義は人びとの病などを治すため、体を残すことを発願し、食物を断って体を絞り、また、低湿な土地で確実に即身仏になれるよう、石仏の形の棺を用意し、その石もわざわざ遠方から運ばせるなど、相当研究を重ねたとのことです。今際の際(いまわのきわ)に石棺に入れてもらい、1年後に出すように頼んだにもかかわらず開けられることがないままとなっていたものが87年後になって石棺が開けられ、即身仏として祀られるようになったとのことです。本堂の参道脇には、舜義が入ったという阿弥陀如来の石仏があり、白菊の花が供えられていました。
円空の生きた時代、即身仏の事例はまだ多くはなく、入定の思想的・技術的な面を学ぶのに、舜義ほどの適任者は当時ほかにはいなかったことでしょう。円空が当地を訪れた時期に、すでに妙法寺に隠居して約5年、72歳ほどになる天台宗の高僧である舜義に会い、死後も即身仏となって人々を救うという思想の影響を受けた可能性は十分にありそうです。
円空関東山岳修行に向かう
------------------------------------------------------------------------------------------------------
円空が、多くの像を集中的に造像した幸手不動院などのあった武蔵国北東部(埼玉県東部)は、広大な関東平野の中央部にある低湿な土地で、山々から遠く、山岳修験僧の円空にとっては、息苦しい土地柄だったのではないかと、登山者として推測します。しかし、日光街道も古河宿あたりまで北上すると、筑波山が東に近づくほか、北西には赤城山、榛名山、妙義山など上野国(群馬県)山々、そして北東には白根山、男体山、女峰山など下野国(栃木県)の山々が一望のもとになります。
円空は筑波山を訪れた翌年の延宝9(1681)年(9月に天和に改元)に上野国の山々を、そして天和2(1682)年には下野国日光の山々を巡ります。円空は、古河あたりから、未知なる霊山での山岳修行を想いながら山並を見晴るかしたことでしょう。その思いは、登山者が未知なる山に憧れる心に繋がるものではないでしょうか。
<参考文献> 『日光山と関東の修験道』宮田登・宮本袈裟雄編 1979年
『岩間町史』岩間町史編さん委員会編 2002年
『日本のミイラ』安藤更生著1961年
<注意> 画像の無断転載を禁じます。
(次回は、2025年4月1日群馬県編を掲載予定です)
画像3:古河市近傍の渡良瀬川遊水地からの展望。左が赤城山、中央から右にかけて日光連山
RELATED
関連記事など