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山の日レポート

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自然がライフワーク

『円空の冒険』諸国山岳追跡記(19)【岐阜県飛騨地方編Ⅱ】   清水 克宏

2025.10.01

全国山の日協議会

元禄2度の飛騨の旅

 円空は、貞享年間の飛騨の旅をいったん終らせ、それから数年後の元禄年間に改めて2度同国を訪れています。元禄1度目の旅では、富山県編でもご紹介したように、元禄3(1990)年春頃に越中の猪谷周辺まで足をのばし、夏に笠ヶ岳および双六岳で山籠修行をしています。これによって念願の飛騨六岳すべてを登りきり、同国での1万体の造仏の所願も達成したことが双六川最奥の金木戸集落に伝わった十一面観音像や今上皇帝像(高山市上宝町桂峯寺蔵)の背銘から読み取れます。
 それにもかかわらず、円空は尾張に戻り熱田神宮周辺で年を越した後、ふたたび翌4(1691)年の春に飛騨南部に向かっています。円空にとって生涯最後の旅となる、この元禄2度目の旅の目的が何であったのかは明らかになっていません。
 この元禄2度の旅を追いかけ、最後となった旅の謎に迫ります。

1度目の旅(元禄3年)

 飛騨地方編Ⅰで触れたように、円空は、千光寺や禅通寺を拠点とした貞享年間の飛騨の旅から、おそらくさまざまな思いを抱え込んで、美濃・尾張地方に戻っています。貞享5年(9月から元禄元年)前後の円空の足取りははっきりしませんが、彼の寺である古代の寺院を再興した弥勒寺(関市池尻)には、大正9(1920)年に火災で焼失する前、数百体の像がひしめいていたといいますから、寺を整え、ひたすら造像に打ち込んでいたのではないでしょうか。そして、元禄2(1689)年3月には、若き日の修行の地、伊吹山山中の太平寺集落を訪れ、十一面観音像を造顕し、同年8月9日には、園城寺(三井寺)の尊栄から『授決集最秘師資相承血脈』を承け、同日、弥勒寺を「天台宗寺門派総本山園城寺内霊鷲院兼日光院末寺」に召し加えてもらっています(弥勒寺文書)。このように後顧の憂いを断った上で、飛騨山岳でも最難関の笠ヶ岳登頂と、同国での造像1万体の所願を成就させるべく、再度飛騨に入ります。
 この時は、高山城下には入らず直接笠ヶ岳などのある高原郷に向かったようで、円空像の分布をみると、前回の富山県編でご紹介した越中西街道、越中東街道のほか、越中東街道から蔵柱川沿いに入り、蔵柱村(高山市上宝町蔵柱)から高原道に出るルートをたどっていたようです(図1)。現在の蔵柱は山あいの静かな里ですが、江戸時代前期には金山で多くの人々が働いており、神社や民家に円空の像が多数残されています。

図1:元禄3年、4年の円空の飛騨での活動範囲(原図出典:高山市教育委員会編『高山市史 街道編』)

清峯寺三尊に込めた円空の想い

 円空は、これらのルートの起点ともいえる、当時は鶴巣村寺山谷の山中に位置した安房山清峯寺(高山市国府町鶴巣)において、飛騨でも千光寺の諸像と並んで最も気迫のこもった千手観音菩薩(124.0㎝)、龍を頭上に載せた龍頭観音菩薩(158.2㎝)、眼から光を放ち合掌する聖観音菩薩(157.0㎝)の大作を造顕しています(千手観音以外の2像の尊名には諸説があります)。同寺はかつて同村の北にある安峰山(1,058m)山中に天台宗の寺院として創建されたと考えられ、飛騨二ノ宮の久津八幡宮所蔵の大般若経に、「正和二年(1313)正月五日 飛騨国於清峰寺長光院書写 執筆天台末学道学坊願主直円」といった奥書がみられ、鎌倉・室町時代に最も栄えたことがうかがえます。学僧ばかりでなく修験者や僧兵も多く抱えていたことでしょう。室町時代には、飛騨国司・姉小路氏の菩提寺ともなっていましたが、応永18年(1411年)同氏は、足利幕府と敵対して飛騨の乱で滅び、同氏に加担した同寺は、火を放たれ焼亡しました。その後、寺は安峰山と現在の鶴巣の里に接した大洞谷の間にあたる寺山谷の山腹に移り、円空はこの場所を訪れています。円空没後40年ほど後に成立した『飛州志』には、「安房山清峯寺跡」として「来由未詳往古本尊聖観音今ハ草堂に安置セリ」と記されますから、当時は住職のいない草堂であったことがうかがえます。同寺は幕末の安政年間に曹洞宗に改宗して再興されますが、円空当時は無住の堂とはいえ、寺院がことごとく浄土真宗と禅宗に改宗していった飛騨国において、唯一天台の法灯を護っていた、天台僧である円空にとっては特別な場所だったと考えられます。数多い円空像の中でも、自らの信仰のまま、何ものにもとらわれない環境で精魂込めて彫りあげた稀有な像といえます。
 そのうち特に注目されるのは、中尊となる千手観音像の膝前に、聳える岩山の中に立つ僧形の像が彫られていることです。この僧形像が誰なのかについては、白山を開いた泰澄、円空自身など、諸説ありますが、円空は飛騨を訪れる前に訪れた日光において、輪王寺光樹院住職で、のちに中禅寺の上人となる高岳と深い関わりを結び、中禅寺立木観音を模した千手観音像を造顕しています(現鹿沼市廣濟寺蔵)。立木観音は、勝道が、「山頂に至りて神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福(さいわひ)を饒(ゆたか)にすべし」(空海撰『沙門勝道歴山瑩玄珠碑并序」)と祈念し15年間の労苦を経て二荒山(男体山)に登頂・開山した折、中禅寺湖の湖上に千手観音が現れたものを彫り写したものと伝えられます。清峯寺の千手観音像も、この立木観音像と共通する像容ですから、岩山は二荒山、僧は勝道を表し、円空は笠ヶ岳登頂の決意と祈りを込めてこの像を彫ったのではないでしょうか。そして、沢登りをする私自身の経験からすると、龍頭観音とされる像は、笠ヶ岳に向けた双六川遡行において増水がないことを、かっと開いた眼から光を放つ聖観音菩薩とされる合掌像は、頂きまでのルートをうまく導いてほしいと祈って彫られたように思われてなりません。

画像(左)1-1:(左から)清峯寺蔵 聖観音菩薩像、千手観音菩薩像、龍頭観音菩薩像、 (右)1-2:千手観音菩薩像の僧形像(拡大)

金木戸川遡行:円空の笠ヶ岳登頂を追体験する

 高原川の支流双六川は、飛騨において最も美しい水をたたえる花崗岩の清流で、川沿いに鎌倉街道といわれる越中に抜ける古い街道が通り、円空は村々に像を残しています。街道は山吹峠から越中国へと向かい川を離れますが、そのまま川沿いに進むと最奥の金木戸集落に出ます。昭和30年代に廃村となり、今は森に還っていますが、かつてあった観音堂には、円空の造った、六面を載せた観音菩薩像(96.5㎝)、今上天皇像(69.5㎝)、善女竜王像(69.0㎝)が伝わり、現在は村人の檀那寺だった曹洞宗の桂峯寺に移されています。六面の観音菩薩の背銘には「頂上六仏 元禄三年 乗鞍嶽 保多迦嶽 □御嶽(於御嶽と宛てて笠ヶ岳という説がある) 伊応嶽(焼岳の飛騨側の呼称) 錫杖嶽 二二五六嶽(四五六嶽:双六岳)」と墨書が残ります。また、文政11(1828)年槍ヶ岳を開山した浄土宗の僧播隆は、それに先立ち笠ヶ岳に文政6(1823)年に登頂していますが、その記録『迦多賀嶽再興記』(高山市上宝村本覚寺蔵)には、「元禄年中円空上人登頂、大日如来ヲ勧請シ奉リ阿観百日密行之霊跡也」と、円空が笠ヶ岳で百日間山籠修行を行った旨を記しています。
 双六川は、同集落周辺から金木戸川、さらに上流では双六谷と名を変えていきます。おそらく円空は、この川を遡行し、双六岳を経由し笠ヶ岳に至ったのでしょう。円空より224年後の大正3(1914)年に、日本山岳会を創設した小島烏水らが笠ケ岳に登頂のもこのルートです。円空の冒険を追体験するため、9月6日~9日に、このルートを遡行してきました。今回サポートをお願いしたのは、『冒険登山のすすめ—最低限の装備で自然を楽しむ』(ちくまプリマ―新書)の著書があり、夏はタープ、冬はイグルー山行という「テントフリー」な山行を実践されている米山悟さん。まさに円空をしのぶ遡行にはうってつけのパートナーです。
 この遡行では、ロープを使っての登攀はありませんでしたが、豊富な水量を渡渉したり、へつったり大岩をよじ登る箇所が多く、単独行で、地図にも天気予報にも頼れない円空の困難はいかばかりかと、改めてその冒険者としての偉業に敬服しました。また、沢登りは日本固有の登山スタイルともいわれますが、円空はその登山法の先達でもあったわけです。 

画像2:金木戸川の遡行。水量が豊富で淵や大岩も多い。

 円空は、水の確保できる双六池周辺をベースにしながら、笠ヶ岳へのルートを開いていったのでしょう。笠ヶ岳山頂に立つと、円空が背銘に記した六岳すべて、そして白山や御嶽も目の当たりになります。

画像3:双六岳からの笠ヶ岳。左手に焼岳(硫黄岳)・乗鞍岳・御嶽が重なる。 すべて円空が登ったと考えられる山々

円空最後の旅(元禄4年)

 笠ヶ岳を極めることで飛騨六岳登頂を成し遂げ、飛騨国での1万体の造像も達成した円空は、翌元禄4年の正月を尾張国の熱田神宮周辺で迎えたことが、高賀神社に伝わる円空の和歌の紙片に「熱田太神宮金渕龍玉春遊に 元禄□年辛未(辛未は元禄4年)正月吉日」とあることから分かります。
 これに続く円空の行跡については、同年4月20日に菅田薬師堂(下呂市金山町)で青面金剛神像を造顕(背銘)、同月22日に小川村(下呂市下呂町小川)で青面金剛神像を造顕(背銘)、そして5月8日に万石村(高山市朝日町万石)の八幡神社で八幡大菩薩像を造顕(背銘)したことが分っています。この八幡大菩薩像が、円空が年号を記した最後の像となります。
 3像の周辺に残る像をつなぐと、円空は尾張藩領で、飛騨の玄関口になる金山から益田川(飛騨川)沿いの益田街道を北上し、益田郡阿多野郷に至っていることが分ります。阿多野郷は、現在の高山市朝日町・高根町全域、および久々野町の一部にあたりますが、その中でも円空の像は朝日町の乗鞍岳から流れ出る青屋川が飛騨川に合流する地点周辺に集中します(図2)。同地には、明治28年から4年がかりで地元の上牧太郎之助が約20㎞におよぶ乗鞍岳青屋道を開いていますが、江戸時代に登山道はありませんでした。当地にはかつて白山美濃禅定道の拠点である白山中宮長瀧寺の末寺である天台宗の長圓寺があり、今も3集落に白山神社が残ります。しかし同寺はのちに浄土真宗に改宗し、ほかにも同宗派の寺院が建立され、浄土真宗の一大信仰圏になっています。同宗は阿弥陀如来の他力本願にすがることを宗旨とし、山岳修験とは相いれないため、禅宗寺院の多い小八賀郷や高原郷では乗鞍信仰が盛んですが、朝日町で円空の像を拝観させていただきながら伺っても、当地にはそのような信仰はないとのことでした。円空は、これまでの飛騨の旅では、藩主金森氏の菩提寺である曹洞宗素玄寺および臨済宗妙心寺派の宗猷寺の末寺を頼りながら行脚しており、阿多野郷のような浄土真宗の信仰圏に意識的に入り、しかも浄土真宗の寺院にも像を残しているのは、きわめて異例です。
 当地の円空像の分布をみると、特に乗鞍岳から流れ出る青屋川の上流である二又川沿い最奥の二又集落の観音堂に薬師如来像が、青屋神明神社には、天照皇大神、白山十禅師の像とともに「乗鞍大権現」の像が残ります。おそらく円空は、美濃や尾張から近いこの阿多野郷の青屋側から乗鞍岳に登拝するルートを求めて当地を訪れたのではないでしょうか。

図2:飛騨の乗鞍岳周辺地図と、高山市朝日町周辺拡大図(赤枠内)

 しかし、この試みはうまくいかなかったようで、朝日町には多くの集落に円空像が祀られていますが、乗鞍岳に登ったことを証する像は確認できません。そして、小瀬集落の白山神社には、かつて当地の薬師堂に伝わった阿弥陀・薬師・釈迦の如来立像3像が残り、そのうち、釈迦如来像には、「出山釈迦牟尼如来」と背銘が墨書されています(画像3)。「出山釈迦」とは、禅宗の絵画などによく描かれる「肉体を痛めつけるだけの苦行からは真の悟りを得ることは出来ないことを知り、失意のうちに山を下りる釈迦」のことですが、山岳修験に励んできた円空の像名としては極めて異例です。この年、円空は60歳、心では山岳修行のさらなる高みを求めていても、肉体的にはすでに限界が来ていたのではないでしょうか。円空は、自分の命の限りを悟り、残された命をどのように使うべきか、深く考えたのでしょう、阿弥陀如来の背銘には「もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらした阿弥陀」を示す「五劫思惟阿弥陀如来」と記されます。気まずく別れた千光寺の住職舜乗の無私無欲な姿を改めて想うこともあったかもしれません。

画像4:小瀬白山神社蔵 (左から)薬師如来立像、阿弥陀如来立像、釈迦如来立像、 およびその背銘 (出典:朝日村史編纂委員会編『朝日村史』)

 円空が飛騨への往来にたどった益田街道沿いには、日本三名泉のひとつとされる下呂温泉があります。温泉街背後の高台には、薬師如来の化身といわれる白鷺が舞い降り、温泉の源泉を知らせたという伝説ゆかりの薬師如来像を本尊とする温泉寺があります。ご住職に伺ったところ、かつて本堂には、重い病を患った人々が湯治のために逗留しており、円空もここで湯治しながら多くの像を彫り、人々に分け与えたと伝わるそうです。同寺には善女龍王像、善財童子像、如来像、宇賀神像が残されています。
 体を癒した円空は、美濃に戻り、いよいよ人生最後の修行に入ります。

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<参考文献> 朝日村史編纂委員会編『朝日村史』(1997年 朝日村)
       木下喜代男氏著『飛騨の乗鞍岳』(2021年 岐阜新聞社)
<注意> 画像の無断転載を固く禁じます。
(次回は、2025年11月1日岐阜県美濃地方編Ⅱを掲載予定です)
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画像5-1(左):温泉寺から見下ろす下呂温泉、手前の松の切り株に白鷺が舞い降りたと伝えられる   5-2(右):温泉寺蔵 (左)善女龍王像、(右)善財童子像

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