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山の日レポート

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自然がライフワーク

『円空の冒険』諸国山岳追跡記 (5)【長野県編】 清水 克宏

2024.07.01

全国山の日協議会

山岳修験の一大霊場だった戸隠山

 山岳修験僧円空は、当時蝦夷と呼ばれた北海道への遠い旅から、寛文7(1667)年には美濃・尾張に帰還したと考えられています。この時期までの円空像は、神像、観音像、如来像などに像容は限られ、几帳面で誠実に彫られているけれども、まだ生硬さを感じさせるものでした。
 それが、寛文9年に尾張国(愛知県)の鉈薬師像を造顕したあたりから、龍や雲が登場し、実に多様な像を、大胆な彫技で製作するようになっていきます。この変化の鍵を探り、長野県の戸隠を訪ねます。

***************

 戸隠山(1,904m)は長野市戸隠に位置し、岩の戸を立てかけたような峻険な山容で知られます。中腹には戸隠神社奥社があり、その摂社として地主神の九頭龍社が祀られています。巨大な杉並木の並ぶ参道を歩くと、神話時代からの変わらぬたたずまいのように思われますが、明治初年の神仏分離以前、ここは顕光寺という神仏習合の山岳修験の霊場だったのです。

 戸隠は、伝承によると嘉祥2(849)年に学門行者によって開山されたとされ、平安時代前期には戸隠山顕光寺が成立し天台系の修験道場となり、平安後期以降、天台密教に真言密教と神道とが習合した神仏混淆の山岳修験の霊場として繁栄しました。しかし、戦国時代に入ると上杉氏と武田氏の戦乱に巻き込まれ、一時期衰退します。
 江戸時代には、徳川家康に所領を安堵され、戸隠山勧修院顕光寺として東叡山寛永寺の末寺となります。摂社の九頭龍社は、当時は神仏習合の九頭龍権現社であり、農業には不可欠な水を司る神であることなどから、むしろこの社の方が、信仰を集めていたようで、二代目安藤広重も、『諸国名所百景』では「信州戸隠山九頭龍大権現」を描いています。
 しかし、明治初年の神仏分離令とこれに伴い生じた廃仏毀釈運動によって、戸隠から仏教的要素は消し去られ、今の戸隠神社の姿となりました。

画像1:戸隠山の全容、右が高妻山(2,353m)、左が西岳(2,053m)

円空と戸隠

 円空は、次のように戸隠をいくつもの和歌に詠んでいます。歌稿であるため抹消の跡があり、また戸隠については、当時別途使われていた「戸蔵」という表記をしています。

 <チワヤフル>天戸をわ 九頭の龍王 擁護して 形なれや 戸蔵(とくら)す神の 幾夜経らん 御形なりけり
 くりからの のめる刄(つるぎ)の 形も哉 あまねく守る 戸蔵(とかくし)の神
 ちわやふる 天岩戸を ひきあけて 権(かり)にそかわる 戸蔵の神

さらに、約10㎞東南に位置する飯縄権現を祀る飯縄山(1,917m)についても、次の歌を詠んでいます。

 かなわすハ とにもかくにも 峯々の 飯縄の神の守の 誓(ひ)ましませ
 飯縄<深山二>にハ 人住(む)事(は) なけれとも たがたき立る 神のけむりそ
 [ ]露に 袖打払う 山伏ミテゝ 飯縄の守れる神の 初(め)成けり

 ただし、廃仏毀釈の影響か、戸隠周辺で円空像は発見されておらず、円空と戸隠の関わりについては、従来ほとんど注目されてきませんでした。ところが、平成30(2018)年、円空が創建した岐阜県羽島市中観音堂の本尊十一面観音像の背面の穴の蓋が初めて開かれ、その像内納入品として午王法印に円空が自らの名と種字(仏尊を表わす梵字)を記した起請文が出てきたのです(画像2)。
 午王法印とは、寺社が出す刷り物の守り札で、裏に起請文 を書く用紙として広く使用されていたものです。納入されていた午王法印には九の頭の龍(蛇体)が描かれており、これが戸隠の九頭龍権現社のものだと分かります。したがって、中観音堂像を創建したと考えられている寛文11年頃より以前、おそらく雲や龍などをモチーフに大胆な彫技を見せる寛文9年の鉈薬師の諸像を製作するより前に戸隠を訪れていたと推定されます。

画像2:(左から)中観音堂十一面観音像納入品の午王法印表面、裏面の円空筆起請文、完存の九頭龍権現社午王印

戸隠の円空追跡

 そんな予備知識を踏まえ、今回は『信州戸隠山惣略絵図』を参考にしながら、円空の戸隠での足取りを追いかけてみました。そのハイライトは、今は廃墟に帰した山岳修験の修行地「戸隠三十三窟」です。

画像3:『信州戸隠山惣略絵図』(幕末期)(出典:長野県立歴史館 デジタルアーカイブ)

 踏査は戸隠神社奥社の随身門からスタート(画像4)。顕光寺当時は仁王門だったものです。門をくぐると、杉並木が続き、ここにかつては多くの院坊が並んでいましたが、廃仏毀釈で、僧は神官などに還俗させられ、戸隠三社のうち中社や宝光社に移転を余儀なくされました。

画像4:戸隠神社奥社随身門(旧顕光寺仁王門)

 奥社手前の戸隠山登山口から入山すると、最初に出会うのが「五十間長屋」と呼ばれる窟で、往時は「毘沙門窟」と呼ばれていました。さらに、絶壁に大きく口を開いた「百間長屋」が続きます(画像5)。ここは、「長岩窟」と呼ばれ、勝軍地蔵が祀られていました。遥かに見えるのが飯縄山です。その先で「西窟」にも出合います。三十三窟は登山道沿いばかりでなく、断崖の各所にあり、そのうち不動窟には不動明王の摩崖仏も残されています。
 さらに進み、いくつもの鎖場を通過すると、蟻の塔渡りが待っています。滑落したら200mほど墜落を余儀なくされる最大の難所で、ここを通過すると、ようやく八方睨みを経て戸隠山山頂に至ります。

画像5:戸隠山百軒長屋(旧長岩窟)と飯縄山を望む

 登山口まで戻り、次は九頭龍社に向かいます(画像6)。正面が拝殿でその奥の廊下の先に半ば窟に潜り込んだ本殿があります。この窟も戸隠三十三窟のひとつ、「龍窟」でした。
 鎌倉中期の建治元(1275)年に編纂された『阿娑縛抄諸寺略記』によると、学問行者が飯縄山で七日間の西の大嵩(戸隠山と推定)に向かって修行をしていたところ、九頭一尾の鬼が出現したのを、学問が法華経を唱え岩窟に封じ大磐石で穴をふさいだとされます。この鬼が雨と水を司る善神、九頭龍権現へと転じ、戸隠から流れ出る沢が千曲川~信濃川となって越後までうるおすことから、広く農民の信仰を集めることになります。また、九頭龍信仰は、龍神信仰や、宇賀弁財天という弁財天の頭上に人頭蛇身の宇賀神が合わさった日本独自の信仰にも結び付いていきました。
 そして、このような信仰に基づきながら、洪水をおさえる「瀬引きの秘法」、水乞いの「出水祈祷」、山崩れをおさえる「山抜けを押さえる祈祷」などの秘法を身につけるため、修験者たちは厳しい山岳修行に励んだのです。

画像6:戸隠神社九頭龍社拝殿。背後の廻廊が龍窟に設けられた本殿に繋がっている

 当時幾たびも洪水に見舞われていた長良川流域で生まれ育った円空が戸隠を訪れたのは、おそらく、九頭龍権現の水を治める秘法を会得するためでしょう。そして厳しい修行ののちに、水を治める祈りを込めて中観音堂の十一面観音像を造顕し、その像内に九頭龍権現の午王法印に記した起請文を納入したのではないでしょうか。さらに円空は、中観音堂に宇賀弁財天像も造顕し、それ以降も宇賀弁財天を彫り続けています。

画像7:宇賀弁財天像 中観音堂

円空造像の分岐点

 九頭龍権現の本地仏宇賀弁財天は、廃仏毀釈で戸隠信仰の表舞台から消し去られました。しかし、神仏分離以前の戸隠山顕光寺の本坊勧修院で、現在は中社門前で久山旅館を営んでおられる久山家に、近年まで「開門不要・他言無用」として守られてきた江戸時代前期の九頭龍辨財天像が伝わると聞き、拝観させていただきました(画像8左)。
 その折、久山家のご当主から、九頭龍権現社にあった宇賀弁財天像が、現在は善光寺の宿坊蓮華院に現存していることが近年分かったと伺い、そちらにも足を運びました。さすが九頭龍権現社に祀られてきただけあって、銅製の八臂の立派なお像でした(画像8右)。円空が中観音像で造顕した宇賀弁財天像と二臂と八臂の違いはありますが、右手に剱、左手に宝珠を持ち、頭上に宇賀神を載せる姿は共通していました。


 円空が生涯信奉した白山信仰では、泰澄が白山を開山した折、十一面観音の化身である九頭龍王が現れたとされますが、弁財天とのつながりは認められません。円空はこれに、九頭龍権現の本地仏が宇賀弁財天とする戸隠の信仰も加え、十一面観音=九頭龍権現=宇賀弁財天と結び付け、福徳をもたらすとともに、水を治める存在でもある宇賀弁財天の像を造顕していったのでしょう。
 円空は、蝦夷から帰還後、厳しい山岳修行を積みながら、次第に独自の発想による多様で大胆な像を製作していきますが、その分岐点となったのが、ここ戸隠の地だったのではないでしょうか。

<参考文献> 
  『戸隠顕光寺史関係年表(古代・中世編)〔増補修正版〕』 信州大学名誉教授 牛山佳幸氏 『川と民話 ―川とともにあった人々の生活を今に伝えるもの』戸隠神社主任責任役員 越志徳門氏
<注> 画像は、所有者の許可のもとに使用させていただいており、二次使用は固く禁じます。


(次回は8月1日愛知県編①を掲載予定です)

画像8:(左)九頭龍弁財天十五童子像 久山家(出典:戸隠神社発行『図録 戸隠信仰の世界』) (右)宇賀弁財天像 善光寺蓮華院

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