
山の日レポート
自然がライフワーク
『円空の冒険』諸国山岳追跡記(20)【岐阜県美濃地方編Ⅱ】 清水 克宏
2025.11.01
 飛騨地方編Ⅰ、Ⅱでご紹介したように、円空は、貞享年間および元禄3年の旅で飛騨を埋め尽くすように造像を行い、乗鞍岳や笠ヶ岳などの登頂を成し遂げます。そして、元禄4(1691)年に、もう一度飛騨を訪れ、おそらく乗鞍岳へ南麓の阿多野郷(高山市朝日町周辺)から登頂を試み、断念したと推測されます。円空は、自らの肉体の限界を悟らされたのではないでしょうか。
 この最後の旅から帰還した後、円空は美濃国の高賀山に入り、山籠修行ののち、自らの寺・弥勒寺に近い長良川河畔において最期を迎えます。円空の最後の日々を、水清き岐阜県美濃地方に追います。
円空高賀山に入る
 前回の飛騨地方編Ⅱで触れたように、円空は、双六川最奥の金木戸集落の観音堂に伝わった今上皇帝像の背銘に、「元禄三庚午九月廿六日 今上皇帝 当国万仏 □□仏作巳」と記しており、「□□仏」を「十マ仏」と読み、
円空が飛騨国で1万体、全部で10万体の仏像を造像を成し遂げたことを記したという説があります。また、笠ヶ岳および双六岳に初登頂し、元禄3(1690)年の段階で、造像と山岳修行において前人未踏の達成を成し遂げています。それにもかかわらず、円空は翌4年も飛騨を訪れ、残された像の分布から推測すると、美濃や尾張に近い南西麓の阿多野郷から乗鞍岳に登拝するルートを求めたと推定されます。しかし、この試みはうまくいかなかったようで、登頂の証となる像は確認できず、小瀬集落の白山神社に伝わる釈迦如来像の背銘には、「出山釈迦牟尼如来」と墨書されています。「出山釈迦」とは、「肉体を痛めつけるだけの苦行からは真の悟りを得ることは出来ないことを知り、失意のうちに山を下りる釈迦」のことで、山岳修験に励んできた円空の像名としては極めて異例といえます。この年、円空は60歳、心はさらなる高みを求めていても、過酷な山岳修行の連続で、肉体はすでに限界が来ていたのではないでしょうか。
 飛騨から戻った円空の足取りが確認できるのは、翌5(1692)年、美濃国の高賀山周辺で、ここで最後の山籠修行を行っています。高賀山(1,224m)は、長良川の支流の中でもひときわ清らかなことで知られる板取川のさらに支流、高賀川源流の山です。山岳信仰の長い歴史を持ち、山麓の高賀神社に高賀宮の本地仏であったと考えられる天治元(1124)年銘の十一面観音菩薩像が伝わり、平安時代には白山信仰に関わる十一面観音の信仰があったことがうかがわれます。鎌倉時代以降は、虚空蔵菩薩の信仰が中心となっていき、さらに大峯修験の影響を受けています。

画像1:高賀山:左手奥が山頂、現在は右手側ピークに峯稚児神社がある
元禄9(1696)年、村役人が尾張藩国奉行に届け出た「洞戸村之内高加仏数書上ヶ帳」には、「虚空蔵一社=大般若六百巻書本文治之年号御座候、若宮八幡一社、大行事一社、月日宮一社、牛頭天王一社、大日並びに護摩堂一軒、金剛童子一社、不動是ハ岩屋ニ御座候、峯之権現一社是ハ山之峠ニ御座候」と記され、円空当時は虚空蔵信仰を中心にした神仏習合の信仰であったことがわかります(画像2)。その後、明治初年の神仏分離で、高賀神社と蓮華峰寺に分かれています。

画像2:高賀神社蔵『高賀権現緒社絵図』(元禄9(1696)年)
 高賀山は、円空の造像活動の最も早い時期から関わりの深かった西神頭家が祭祀する郡上四十九社が山麓にある瓢ヶ岳(1,163m)、そして今淵ヶ岳(1,048m)とともに「高賀三山」とも総称されます。円空が最後の修行の地を、なじみ深い瓢ヶ岳ではなく、高賀山に求めた理由は明確には伝わっていませんが、ひとつには、円空を若き日から見守ってきた西神頭家の当主安永が、貞享3(1686)年に亡くなり、縁が薄くなったことがあるのでしょう。また、瓢ヶ岳山麓は郡上藩であったのに対し、板取川、高賀川沿いは尾張藩領だったので、修行にあたり円空と関わりが深い同藩の支援が得やすかったという事情も推定されます。そして、白山を信奉し、大峯山で4年にまたがる厳しい修行を行っている円空にとって、白山信仰のルーツを持ち、大峯修験の影響下にある高賀山は修行の場に格好だったはずです。山中には垢離取場(こりとりば)と呼ばれる禊(みそぎ)ができるひときわ美しい水場や、不動の岩屋と呼ばれる不動を祀った大規模な岩屋があります。内陸なので雪も少なく、円空の修行の地をいくつも巡りましたが、これほど長期の修行に適した場所はありませんでした。
 さらに、円空は、高賀山の山上に祀られた、高賀神社の奥宮である峯稚児宮(峯児権現、峯之権現)に心を寄せていたということも大きな理由の一つと考えられます。円空は、峯児大権現・峯児擁護大明神と記した像を3体残しています。そのうち松見寺(関市広見)の像には、像内納入物を封入した形跡がみられ(画像3右)、円空研究家の小島梯次氏によると、このような像内納入は寛文9(1669)年~延宝2(1674)年に限られているとされ、少なくとも円空は、元禄5年に高賀山に入る以前から峯稚児宮に心を寄せていたことがわかります。峯稚児宮は、子供を護るカミとしての信仰があり、円空が高賀山周辺を詠んだ和歌を13首残しているうち、12首までもが峯稚児宮を詠んだものです。円空は、なぜこれほど峯稚児宮に心を寄せていたのでしょうか。
 円空は、大峯修行後の延宝4(1676)年に造顕した荒子観音寺の木っ端で造られた千余体の仏を納めた厨子の正面に、「南無大悲千面菩薩 鎮民子守之神 観(ママ)喜沙門 四鎮如意野會所 信受護法」、裏面に「是也此之 クサレルウキ々 トリアケテ 子守ノ神ト 我盤成奈里 (これやこの くされるうきき とりあげて 子守の神と 我は成すなり)」と墨書するなど、子供の守りにとりわけ心を砕いています。
 円空の生まれた土地と推定される、木曽川と長良川に挟まれた現在の羽島市周辺の一帯は、記録を見ると江戸時代前期には特に頻繁に洪水が発生しています。これは尾張国が木曽川に左岸に、慶長14(1609)年にお囲い堤といわれる堅固な堤防を造ったため、もともと地盤が低く、堤防も脆弱な美濃国側がしばしば破堤するようになったためともいわれます。特に、慶安3(1650)年9月の通称「ヤロカ水」の洪水では一帯で3,000人を超える死者が出たといいます。円空は、多くの人々の死を目の当たりにし、とりわけ自分と同じような子供たちの死に心を痛めたことでしょう。さらに円空は、病の人々のために祈り、看取ることも多かったことが、弥勒寺に伝わる自筆の病気診断の覚えにうかがえます。その中で「産ノ口唇赤生墨死 舌赤子生墨子死」と記していますから、神仏にすがることさえ知らぬ幼い子供たちの命を見送ることもしばしばあったはずです。円空の像に見られる、誰の心にもすっと入り込む微笑みは、「かわいい」だけではなく、数知れぬ悲しみを通して生まれたものだったのです。円空の峯稚児宮を詠んだ12首のひとつに次の歌があります。
  あるゝとも 小児(ちご)の御峯に 参(り)して 御形を拝(む) 万代まてに
 不動の岩屋を拠点に修行し、荒天の日でさえ山上に参り、子供たちの幸いを祈ったのでしょう。

画像3:松見寺蔵 (左)峯児大権現像(28.8㎝)、(右)同背面
 高賀神社に伝わる懸仏(かけぼとけ)の裏面に、円空は次のように墨書しています。
   七歳使者現玉/元禄五年壬申卯月十一日/此霊神成龍天上/一時過大雨降/大龍形三尺餘在/
   此不可思議 圓空(花押)/大般若真讀誦時也
 この墨書には、元禄5(1692)年の4月11日に、大般若経を「真読」して雨乞い祈祷をしたところ、三尺あまりの龍が現れ、大雨が降ったとあります。大般若経は、600巻に及ぶ膨大なものなので、通常は、「転読」といって、複数の僧や修験者が分担し、経題や初・中・後の数行を読み、あとは折本にした経を扇のようにパラパラと翻転させて読んだことにします。それに対し「真読」とは、600巻すべてを実際に読むことです。大般若経は約500万字あり、1人が50巻を読むのに2日間飲まず食わずでようやく完了するともいわれますから、きわめて過酷な行であったはずです。円空はこれを成し遂げ、祈りのとおりに雨を降らせます。山岳修行を極め、造像を極め、祈祷においてもここにピークを迎えます。
 円空は、高賀神社に旅の伴(とも)であった錫杖を納めています。龍を彫り込んだ杖が短く折られているのは、円空が旅を終う(しまう)決意を表しているのかもしれません。
 そして、円空は、修行の一環として多くの和歌を詠みましたが、高賀神社の文治年間(鎌倉時代初期)の古い大般若経の補修を行った際、自ら詠んだ1600首近い和歌の歌稿を、表紙の裏紙として貼り付け、さらに「峯児」と彫られた硯も同社に納め、歌を詠むことを終います。そこには、「けさの百首」、「袈裟二字百首女童子の作者円空」と題した200数首も含まれ、袈裟山千光寺の舜乗へのさまざまな思いも断ち切ったのでしょう。
 さらに、円空は虚空蔵菩薩像や、畢生の大作十一面観音、善女龍王、善財童子の三尊像(画像4)などを造顕します。円空が生涯信奉した白山の本地仏である十一面観音、雨乞いの善女龍王、そして僧形の善財童子は、一本の木で造りだされています。善財童子は、仏教に目覚め、文殊菩薩の勧めにより、観音菩薩や弥勒菩薩を含めた様々な善知識53人を訪ね歩いて修行を積み、最後に普賢菩薩のもとで悟りを開くという、菩薩行の理想を表す存在です。幼くして出家したにもかかわらず、おそらく何ものも救いがたい思いから寺を逃れ出て、先も見えぬまま伊吹山で登攀修行に明け暮れていた円空が、造像という術(すべ)を得たことをきっかけに、西神頭安永、張振甫、園城寺の尊栄、輪王寺の高岳、千光寺の舜乗など善知識ともいうべき多くの人に出会い、信仰を深め人々を救う道を得た自分を善財童子に重ね合わせていたのではないでしょうか。

画像4:高賀神社蔵(中央)十一面観音像、(右)善女龍王像、(左)善財童子像 (撮影:長谷川公茂氏)
 円空は、その造像さえ、全身に梵字を墨書し、台座に「釜且 入定也」と彫った歓喜天像をもって、終っています(画像5)。この謎めいた銘の意味については、諸説ありますが、歓喜天像は、強い呪力を持つ反面、背いた場合には災いが降りかかるという特別な尊像であり、台座に彫りこんだ銘には強い誓いが込められていると考えるべきでしょう。
 まず「釜」の意味ですが、修験道や密教の儀礼で、護摩修法に使われる標準的な護摩釜の容量が六斗四升であり、六十四を意味すると推測されます。そして、六十四で且(まさに)入定也とは、当時61歳であった円空が、旅も歌も造像も終い、64歳での入定に向け、最後の約3年に及ぶ千日修行に入る決意を刻み込んだものではないでしょうか。
 次に「入定」の意味ですが、一般には「① 禅定にはいること。精神を統一して煩悩を去り、無我の境地にはいること。➁ 高僧が死ぬこと。入滅。」(小学館:デジタル大辞泉)とされます。しかし、空海に代表されるように、僧は入滅において死ぬのではなく、生死の境を超えて弥勒菩薩出世の時まで衆生救済を目的として永遠の瞑想、すなわち「入定」に入るとの思想があります。このような意味での「入定」にも、さまざまなバリエーションがあり、土に埋められる「土中入定」や、通常の生身ではたどり着けない56億7千万年後の弥勒の下生を、滅心定(心のはたらきがすべて滅した禅定)に入ることで待つという思想による「即身仏(入定ミイラ)」など一様ではないことが、研究団体「日本ミイラ研究グループ」によって明らかにされています。
 円空が、歓喜天の台座にどのような思いで「入定」と刻んだのかを考察するうえで、円空が生涯信奉した弥勒信仰に目を向けてみたいとおもいます。

画像5:高賀神社蔵 歓喜天像(13.2㎝) 出典:『ほらど村の円空』(洞戸村・洞戸村教育委員会)
 円空の生涯を振り返ると、人々を救済する面では、法華経や大般若経を信奉し、全体の約3割を占める観音菩薩像を中心に、さまざまな像を造顕しています。その一方、人々を救う資質を身に着ける山岳修行の面では、以下にご紹介するように、終生弥勒菩薩の信仰に貫かれていました。
 弥勒菩薩は、釈迦如来の次にブッダとなることが約束された菩薩で、釈迦の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開くとされ、それまでは兜率天で修行しているといわれ、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行しました。一方、弥勒菩薩が悟りを開きこの世に現れ、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度するとの信仰(下生信仰)もありました。
 若き日に山籠修行に打ち込んだ伊吹山の山頂は中世から弥勒の世界とする信仰があり、弥勒像が祀られていました。江戸期には、女人禁制の弥勒堂が信仰の中心となっており、円空は早い時期から弥勒信仰に親しんでいたと考えられます。
 40歳代に入った円空は、寛文12年から延宝3年(1672~1675)頃まで大峯山で本格的な山岳修験の修行を行っていますが、金峯山(山下の吉野と山上の大峯の総称)は、弥勒仏の浄土とみなされていました。円空は、大峯での厳冬期を含む過酷な山籠修行を経て、生涯を護法に捧げる決意をしたことが、延宝2(1674)年の志摩国から始まる各所での大般若経補修の営みや、この時期以降多く造られる護法神像からうかがわれます。そこに添えられた和歌から、円空は、弥勒への信仰を常に心におきながら、造像し、修行していったことがわかります。
 志摩片田の『大般若経』第281巻奥書(志摩立神の『大般若経』第62巻奥書にも同様の墨書あり)
  イクタヒモ タヘテモ立ル 法之道 九十六憶 スエノヨマテモ
 音楽寺の護法神背銘(荒子観音寺の護法神にも同様の銘あり)
  幾度モ タエテモタツル ミエノテラ 九十六オク スエノヨマテモ
 延宝7(1679)年7月5日に、円空は、『仏性常住金剛宝戒相承血脈』を園城寺の尊栄から受け、40歳代後半になって初めて正式に天台宗寺門派の僧となります。寺門派の本山園城寺は、延暦寺を本山とする山門派の顕教(法華経を根本仏典とする天台法華の教え)と密教の教えに、修験道を加えた3つの教えを兼ね備えており、本山派修験総本山である聖護院も寺門派の寺院でした。園城寺の本尊は弥勒菩薩であり、歴史的に伊吹山とも深い関わりがありました。
 園城寺で血脈を承けた円空は、関東に向けて旅立ち、延宝8年(1695)に常陸国(茨城県)を訪れています。茨城県編で触れたように、常陸に向かう結城街道沿いにある天台宗の妙法寺(桜川市本郷)には、貞享3(1686)年78歳で入寂した舜義の関東唯一、天台宗で唯一の即身仏(ミイラ)があります。円空が当地を訪れた時期に、妙法寺に隠居していた72歳ほどになる舜義に会い、即身仏となって人々を救うという思想に影響を受けた可能性は十分にありそうです。
 そして、元禄2(1689)年8月9日、円空は、園城寺の尊栄大僧正から「被召加末寺之事」の書面を受け、自坊の弥勒寺を園城寺内霊鷲院兼日光院末寺に召し加えてもらっています。関市池尻にある弥勒寺は、長良川に面した美濃地方の豪族身毛津(むげつ)氏の氏寺と推定される古代寺院を再興したもので、弥勒菩薩を信奉してきた円空にふさわしい寺名といえるでしょう。先に触れた高賀神社の大般若経の表紙裏紙に円空が張り付けた歌稿の中に、次の歌があります。この歌の前が、熱田宮を歌ったもので、円空は元禄4年の正月を熱田で迎えていることから、それに近い時期のものと推測され、廃寺となった弥勒寺を再興したことを背景としていると考えられます。
  幾度も たへても立る 三會の寺 五十六憶 末の世まても
 円空の再興した弥勒寺は、大正年間の火災で本堂など諸堂をことごとく焼失し、納められていたおびただしい円空の像もすべて失われてしまいました。幸い、血脈写や、さまざまな覚えを裏に記した愛用の法華経など貴重な円空自筆の文書は当時寺外にあったため残されましたが、それ以外、寺の再興年をはじめ、寺の沿革の分かる文献類はまったく残されていません。弥勒寺の代々の住職の墓地にある円空の墓の墓碑銘に、「(弥勒菩薩を示す種子「ユ」)當寺中興圓空上人 元禄八乙亥天七月十五日」と刻まれていることから、円空の入寂は、元禄8(1695)年の7月15日とされます。ただし、墓碑には名と僧位だけが記されるのが通常ですが、この墓碑には「當寺中興」などとありますから、後年に建てられた可能性もありそうです。
 かつて弥勒寺に近い長良川の河畔に、樫、藤などの鬱蒼と繁った場所があったといいます。しかし、そこに昭和14年「円空上人塚」という石碑が立てられ、昭和48年には、「円空入定塚」として岐阜県の史跡に指定され顕彰碑も立てられ、さらに近年は小公園化されてしまい、往年の幽邃な雰囲気を感じとることはできません。昭和52年の岐阜県教育委員会のまとめた『岐阜県指定文化財調査報告書』の「円空入定塚」の項には、「円空が自ら死期を予覚して絶食し、念仏のまま、穴の中で鈴を振り、この音が聞こえなくなったら、生命を絶ったと思えといって、入定したと伝えられている。」と記されます。ただし、江戸時代の円空に関する文献に入定の記載はなく、弥勒寺にも墓碑をのぞくと一切記録は残っていないのが実情です。しかし、円空の生涯は弥勒信仰で貫かれていたこと、造像、山岳修行、作歌、祈祷とすべての面で極みに達したとの自覚があっただろうこと、61歳の時に歓喜天という極めて呪力の高い像に「釜且 入定也」と記し、そののち約3年間消息が絶たれ、おそらく千日の修行を行っていたと推定されることなどから、円空はやはり入定をめざしていたと考えていいのではないでしょうか。
 円空の百日、百二十日といった過酷な山籠修行を追いかけた経験からすると、円空は、自らが弥勒の世まで滅尽定の状態で(ミイラとなって)待つことを目的としたというよりは、即身仏となって今生きる人々を救い続けようという強い意志を持っていたと思われてなりません。円空像の微笑みに癒される思いがするのも、そんな円空の魂が今も生きてあるからかもしれません。
 ある晩春の夕暮れ、円空をしのんで高賀山の山上に立ちました。岐阜県のほぼ中央部の山塊の最高峰だけに、すこぶる見晴らしがよく、傾きかけた陽が山並みをひときわくっきりと浮かび上がらせていました。北には円空が終生信奉した白山が残雪を光らせ、西には若かりし日に修行した伊吹山、南には長良川や木曽川に挟まれた生まれ故郷や、爆発的な造像を行った美濃や尾張の平野、東は御嶽、乗鞍岳をはじめ、厳しい山岳修行に打ち込んだ飛騨の山々がはるかに眺められ、ああ、円空も、最後の修行の日々、ここに自分の人生そのものを眺める万感の思いで佇んだのだろうと思われてなりませんでした。

画像6:高賀山からの白山
<参考文献>  洞戸村史編纂委員会編『洞戸村史』(1988年 洞戸村)
       『関市 洞戸・板取の円空―板取川上流と高賀川 改訂版』(2020年 関市)
       小島梯次氏著『円空・人』(2021年 まつお出版)
       内藤正敏氏著『日本のミイラ信仰』(1999年 法蔵館)
<注意> 画像の無断転載を固く禁じます。
(2025年12月1日 最終回を掲載予定です)
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