山の日レポート
自然がライフワーク
「TOKYOにも山がある!」第7回 西郷山から代官山へ低山縦走!
2023.12.15
渋谷の街は地下鉄がビルの3階の高さを走っているほどの凹地だ。どこへ行くにも坂を昇らなければならない。私が描いた下手な絵だが、渋谷から西郷山の脇にあるトンネルを抜けて目黒川に降りる道が描いてある。トンネルの上は旧山手通りが走っている。昔は三田用水が流れていたが今は跡も不明。
西郷山公園は西郷隆盛の弟の従道の広大な屋敷跡の一部である。ここに兄隆盛を迎える予定だったが西南戦争で亡くなったため従道の思いはかなわなかった。西郷さんの屋敷がある場所なので「西郷山」と呼ばれていた。現在は公園になっており目黒川低地を見下ろすすばらしい眺望の地である。お花見時は大いににぎわう。目黒川からの登山コースは九十九折れに登っている。山頂部は円盤のような形だ。資料は見つからないが、私は「円墳」だろうと想像している。
旧山手通りは峠の上をまたいで代官山と西郷山をほぼ水平につないでいる。それは西郷橋が昔は三田用水の縣樋(かけとい)だったからである。三田用水は玉川上水から分水した江戸6上水のひとつで、渋谷川と目黒川の間の細長い台地の尾根に水路を開通させていた。山を削り谷を埋めほぼ水平にしてゆるやかに水を流したのである。山手通りが上り下りの少ない穏やかな道なのは用水跡に作れた道だからである。現在の山手通りは、交通量が増えたので目黒川沿いに移動している。
西郷山から代官山へは山手通りを歩いてすぐ到達できる。しかし今回は西郷山をおりて目黒川沿いをしばらく中目黒駅方面に歩き、新装なった東京音楽大学脇の目切坂を登って代官山に出た。ここは昔の鎌倉街道で登りきったところに峠のお地蔵さんがある。
お地蔵さんの反対側には立派なお屋敷がある。これが代官屋敷かと思ったが、大正8年に東京府議会議長をやった朝倉虎治郎が建てた屋敷だそうだ。見学料を払うと大正の豪華な屋敷の雰囲気を味わうことができる。お代官様の屋敷などは見つかっていないそうだ。
この屋敷の裏手に回るとわずか3mほどだが小さな山があった。登ることができるので上がってみたら「猿楽塚古墳」とあった。この辺りにはいくつもの古墳があったようだ。先ほど行った西郷山の上の円盤状の小山も古墳に違いない。現在ではこの小山が代官山の頂上である。
上の絵は目黒川から目切坂(鎌倉街道)を経て代官山に登る想像図である。橋の近くに今は東京音楽大学のすばらしい校舎がある。音楽大学の上にある高級マンションの場所に江戸時代、富士講(丸旦講)の富士塚があった。高さは12mもある巨大な富士山で、丸旦講の人々の熱意が感じられたという。しかし熱意が裏目に出て明治の廃仏毀釈で富士塚は取り壊された。明治政府は仏教的な富士講を目の敵にしたのである。今この巨大な富士塚跡の看板だけであるが、熱心な講の人たちは丸旦講の石碑を目黒区大橋の氷川神社の上に浅間神社として移築した。いまは大橋に目黒元富士が細々と残っている。
実は目黒にはもう一つ目黒新富士というのがある。広重の江戸名所絵図には二枚の目黒富士がある。右側が代官山にあった「目黒元不二」で、左が「目黒新富士」である。
私は目黒新富士の絵を参考に代官山の目黒富士を描いてしまった。広重の絵は遠くに富士が見えるが私のは全く逆で目黒川から渋谷の方角を見ている。広重の新富士に描かれた水路は「三田用水」なのに私は目黒川と誤解したところから、こんな絵になってしまった。ちょっと恥ずかしいが現在の私の脳力の至らないところである。
目黒新富士、これは現在の中目黒二丁目の公園に石碑が残っている。別名は近藤富士、択捉島探検で有名な近藤重蔵の屋敷内に作られたものだ。目黒元不二の7年後に富士講ではなく個人で作られたものだったので、明治政府の廃仏毀釈の対象にならず破壊は免れ昭和34年まで存在したらしい。
目黒新富士、目黒元不二、氷川神社内の目黒元富士、いろいろ紛らわしいが、やっと私の中では区別がつくようになった。
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