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山の日レポート

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自然がライフワーク

「TOKYOにも山がある!」第3回 清瀬 中里富士の火祭り!

2023.10.16

山の日通信員
三輪主彦

武蔵野台地を刻む小河川がある。柳瀬川もその一つで新河岸川へ流れている。江戸の時代には清い流れがあった。清瀬の地名はそこから出たものだろう。柳瀬川の清瀬側河岸はかなり高い崖になっている。その地形を利用して中里富士が作られている。富士講の碑は多いが富士山の溶岩は少なく土の富士山という感じである。

第3回 清瀬 中里富士の火祭り!

富士山登山の山仕舞いとして毎年8月26日、登山口の富士吉田の町で豪快な火祭りが行われる。富士吉田の御師の家々では巨大な松明が掲げられる。清瀬の富士講の先達たちも毎年鎮火祭に参加し、その報告を9月1日に行うことになっている。

富士山北口鎮火祭図 1875年頃 wikipediaから

しかしコロナ禍で中止が続き、やっと4年ぶりに清瀬中里富士の火祭りが行われることになった。ここ中里富士では「火の花祭」と称して子どもたち中心の盆踊りが行われている。久しぶりの行事とあって浴衣姿の子どもたち、ばあちゃんたちで大いににぎわっていた。

「火の花祭」は中里富士より少し登った広場で行われている。昔は清瀬中里富士の裾野で行われていたが今年は例年よりも“小さな松明”が置かれているのみだ。昔は都内の他の富士塚でも火祭りが行われていたが近年は防火意識がひろがり盛大な火祭りをやるのはここ清瀬中里富士だけになった。

左:登山道には灯火柱がたてられているがなかなか点火しない 右:松明はこんなに小さく、点火時間も短い

左:富士塚頂上でのお焚き上げ行事 右:丸嘉講の先達の方々、今年は4回富士山に行ったそうだ

私は50年前に清瀬高校に勤務していたが、清瀬中里の富士山で火祭りが行われていることは知らなかった。10数年前に清瀬中里に住む卒業生から今でも火祭りが行われていると聞き訪れた。
その時は私の背を越えるほどの大きな松明に火がともされたあと鎮火するまで見ていた。今年の松明はかなり小さい。暗くなってきたのに点火する気配はまったくない。
消防からの指導で火の粉が飛ばないように小さな松明になったという。点火継続時間も短くなるとのこと。点火は「火の花祭」の終了する21時の10分前で、継続時間も10分ほどだという。
まだ19時だ。いつも早寝の高齢者は点火されるまで待ちきれず、今回は早々と帰宅してしまった。

今年の火祭りの写真はないので、2007年の火の花祭りの写真です。松明は今年よりも大きく、炎もすごかった

■都内には70近くの富士塚が現存する!

左:品川富士(品川神社境内に移転してきた)(いつでも登れる、眺望がすばらしい)         
右:下谷坂本富士(小野照前神社境内)(7月1日の山開きに登ることができる)

左:品川富士      右:下谷坂本富士

江戸の時代には八百八講と言われるほどのたくさんの「お富士さん」が作られた。本物の富士山には行けない女・子どもはここに登って富士登山の気分を味わった。数メートルの高さだが富士山の溶岩が貼り付けられ富士講の石碑がたてられた。
しかし富士山信仰は勢力が大きくなりすぎて幕府は危機を感じるようになりしばしば解散を命じたがその度に復興していた。明治になると政府の廃仏毀釈の流れの中で、仏教ではない富士講も一緒に弾圧された。数多くあった富士塚も取り壊された。広重の浮世絵に描かれた目黒富士も今はない。
現在都内には70近くの富士塚がある。いくつかの富士塚では富士講の方々が健在で様々な行事を行っている。しかし建設当時から現在までほとんど変革がなく存在しているものは下谷坂本富士など三富士に過ぎない。その三つの富士塚は特に珍しいので国指定の重要文化財となっている。その他の富士塚は取り壊された後復元されたり、道路などの工事のために移転したりしたものである。中には近年になってから新設されたものもある。
いま私は、現在ある70の富士塚をすべて登山してみようか、と考えている。

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