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山の日レポート

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通信員レポート

ミスター富士山手記【運命の生涯登山】 2青春時代 (2/2) 

2025.09.24

全国山の日協議会

日光白根山

文・写真提供 實川欣伸さん

高校3年の夏、同級生たちと50kgほどのキスリングを背負いキャンプに出掛けた。早朝、上越線・群馬県沼田駅で下車し、バスに乗換え菅沼へ行き、ここから歩いて金精峠に向かう。峠に男性のシンボルが祀られていて、女子達は見て見ぬ振りをしているようだった。金精山まで急登の藪漕ぎの連続だったが、五色沼までには視界も開け、約2500mの火山湖周辺の景色は、この世の楽園のようだった。五色沼の傍にテントを張った。翌日、日光白根山に登頂し、祝杯をあげた。飲食料が無くなると湯元の商店へ行き、主人に「どこまで戻るのか?」と聞かれ、五色沼と言うと驚かれた。再度藪漕ぎの直登でキャンプに戻り、思う存分遊んだ。下山を始めたところで、山頂直下から爆発音と同時に、巨大な落石を目の当たりにしゾッとしたが、無事に下山。絶景との別れを惜しみながら湯元を通り、戦場ヶ原を抜け、竜頭の滝、二度目の中禅寺湖でキャンプを楽しんだ。

谷川岳 右が相棒(アルバムからの切り抜き)

谷川岳

 高校3年10月初旬、女子高の2人から山に行きたいと言われ、親友を誘い4人で谷川岳へ行った。女子は登山経験少なく体力も無さそうで、食料とテント等の装備は男2人で分担し、上野駅を出発。最終列車で高崎~上越線の土合駅下車。早朝、緩やかな道を進むと、緑が深くなり、朝なのに何と無く薄暗く感じられた。登山道の斜面に数多く並んでいた慰霊碑を見て、、ここが日本で有数の遭難者を出している“一ノ倉沢”と気付く。クライマーが滑落事故で宙刷りになり、救助は困難極め自衛隊が射撃でロープを切断し遭難者を収容したという事故もあった場所。ここから間違って通り過ぎた巌剛新道に戻り、登山再開。登り始めると、女性達は意外にも快調だったが、相棒が、ルートを間違えた事で体力を消耗したか?思うように登れない。彼は小学校からの親友で、何度も一緒に山に登っているが、一度もバテた事はなかった。仕方なく、相棒のザックを登山道脇に置き、皆で100m程登っては私が戻り、背負い上げるを繰り返して、何とか日没前の山頂~肩の小屋に着いた。時間も遅く疲労気味の為、幕営は諦め山小屋に宿泊。主人からは、谷川岳のこの時期にテント泊とはとんでもないと小言を言われた。翌朝、快晴の上越の山脈を眺めながら、相棒に昨日の不甲斐無さに苦言を呈しつつ、天神尾根を下りた。すると予想外にも女性達に「また来年、卒業前に今度は丹沢登山に連れていって欲しい」と言われた!

春になり、連絡すると、お嫁に行ったと!!

谷川岳(アルバムからの切り抜き)

大学時代

高校時代は、登山やキャンプの他、スケートも好きで、軽井沢、榛名湖、山中湖、箱根によく行った。スキーは草津に一度行っただけだが、指導も受けず、自己流の直滑降で尾根を滑り下りたのが楽しかった。
私は高校を3校も変わったので、3校目の定時制高校は20歳で卒業。 
その後、推薦で法政大学法学部Ⅰ部に受かると、今度は、昼間に学業、夜はアルバイトで忙しくなった。友人の多くも高卒で大手企業に就職し、お互い登山とは疎遠になっていった。それでも時々、奥多摩の秋川渓谷、神奈川県真鶴半島や丹沢の水無川等でキャンプを楽しんだ。なかでも友人の勤める企業保有の奥多摩の山小屋(20人以上宿泊可能)でクリスマスパーティーをやり、大勢で盛り上がったのは心に残る思い出だ。

真鶴キャンプ

真鶴キャンプ

奥多摩山小屋(クリスマスパーティー)

人生の転機

この頃、私の人生を大きく変えた岐路が訪れる。 
大学1年10月初旬の夜、隣家からの延焼で自宅が全焼してしまったのである。着の身着のままで避難した。全焼6~7軒だったと思う。ほとんどの物がその晩に焼けてしまったが、小学3年生頃からカメラが好きで二眼レフカメラで撮り貯めていた膨大なアルバムが、火事の熱で圧縮されながらも一部が焼け残っていた!この連載に掲載されている少年~青年時代の写真は、その焼け残った画像の数々である。写真には、当時の感情や感覚を呼び覚まし、記憶の定着を助ける力がある。残った写真は宝だ。
しかし、失ったものは大きかった。火事の直後から生活の立て直しに追われ、教科書や参考書の新品を買いなおす余裕も無く、中学の担任に「君に向いている」と言われ目指していた、弁護士への道を忘れていくのである。この火事がきっかけで、何と!10年以上蒸発していた大工の親父が戻ってきて、一緒に家を建て直した。そして生活費を稼ぐ為、友人の親が経営する大手硝子会社の協力会社で夜勤、地元鶴見のビアホール・ライオンでも働いた。勉強する時間も金銭的余裕も無く多忙を極めたが、バイト後に仲間と騒ぎ酒を交わし、実は楽しかった思い出しかない。

火事の後のバイト(左・大学2年夏・鶴見ビアホール)

山梨県四尾連湖キャンプ場(右・火事の後のバイト(旭硝子下請け会社)の仲間と。大学3年頃)

 こうして山とも疎遠になっていったが、大学通学時、京浜東北線・鶴見駅に貼ってあった、アフリカの大草原に浮かぶ「キリマンジャロ」のポスターを見て、“あの山に、死ぬまでに登りたい”と思った気持ちは忘れなかった。

弁護士にはならなかったが、今振り返れば、あの体験は、将来富士山に向かうことへの岐路だったのではないか、そう思っている。

中学生の自分(中学生で買った二眼レフカメラを持って)

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