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立山信仰の世界へようこそ!【連載4】立山が開かれる -立山開山縁起とは?-
2025.12.03
みなさん、こんにちは。富山県[立山博物館]館長の高野です。
霊山・立山は仏教の山として開かれ、そのことが「立山開山縁起」として伝承されています。今回は、江戸時代の「立山略縁起」(芦峅寺相真坊本)に記された「立山開山縁起」のエッセンスをご紹介しましょう。
鷹狩りに出かける有頼(立山曼荼羅大仙坊A本部分、芦峅寺大仙坊蔵)
大宝元年(701年)、文武天皇の命をうけた佐伯有若(さえきありわか)は、越中国の国司として赴任し、布施川のほとりに城(布施城)を構えました。
翌年、有若の子の有頼は、父の大切にしている白鷹(しらたか)を持ち出し、鷹狩りに出かけますが、その白鷹を逃がしてしまいます。それを聞いた父の有若は激怒し、有頼は父の怒りを解くために一人で白鷹を探しに出かけます。そして白鷹を見つけ、鈴を鳴らして呼び寄せると、そこへいきなり熊が現れて邪魔をしたため、驚いた白鷹は再び飛び去ってしまいます。さらに熊が襲いかかってきたため、有頼は熊に向かって矢を射ると、矢は熊の胸に命中しました。
熊に矢を射る有頼(立山曼荼羅大仙坊A本部分、芦峅寺大仙坊蔵)
逃げる白鷹(立山曼荼羅大仙坊A本部分、芦峅寺大仙坊蔵)
ところが、熊は絶命せずに矢を刺したまま、血を流しながら逃げていきました。その方向に白鷹も飛んでいったのです。有頼は、血の跡を手がかりに熊を追いかけます。途中で夢のなかに老人が現れ、熊が立山の山中へ入っていったと教えてくれます。有頼は山中に分け入り、やがて熊と白鷹が玉殿窟(たまどののいわや)のなかに逃げ込むのを見ます。
有頼が洞窟のなかに入ると、金色の阿弥陀如来、その横には不動明王が現れ、阿弥陀如来の胸には有頼が射た矢が刺さり、血が流れていました。熊はじつは阿弥陀如来であり、白鷹は不動明王であったのです。阿弥陀如来は立山を開山させようと有頼を導いてきたのでした。有頼は、ほとけさまに矢を射ってしまった罪の意識から自害しようとしますが、そこへ薬勢仙人が現れ、その行為を止めます。そして有頼は、出家して慈興(じこう)と改名し、厳しい修行をして登る道をつくり、堂舎を建立し、仏の山として開きました。
玉殿窟内での有頼(立山曼荼羅大仙坊A本部分、芦峅寺大仙坊蔵)

室堂平にある玉殿窟

木造慈興上人坐像(国指定重要文化財、鎌倉時代、雄山神社中宮祈願殿蔵)
江戸時代の立山開山縁起では、佐伯有頼という少年が開山者になっています。
ところが、最も古い縁起とされる「伊呂波字類抄」(いろはじるいしょう)十巻本のなかの「立山大菩薩顕給本縁起」には、父の佐伯有若が開山者として登場します。
また、鎌倉時代の「類聚既験抄」(るいじゅうきげんしょう)「越中国立山権現」の記事では、狩人が山中で熊を射ると阿弥陀如来と化したとしており、開山者は名もなき狩人としています。これがおそらく縁起の原形なのでしょう。
そして、江戸時代の百科事典である「和漢三才図会」(わかんさんさいずえ)では、開山者が佐伯有頼となっていきます。
立山の開山縁起は、狩人であったものが、10世紀初めに越中守であった佐伯有若が取り込まれ、その後、親子関係が組み込まれ、有頼として完成したと考えられます。

呉羽山展望台の佐伯有頼像
狩人が熊を追いかけるというシンプルな話は、熊野権現の縁起によく似ています。「三国伝記」の「熊野権現本縁事」では、猟師の近兼(ちかかね)が熊に矢を射かけ、血の跡をたどると石窟のなかで金色の阿弥陀如来が現れ、弓矢を折って出家したのが熊野信仰のはじまりとします。狩人を開山者とする縁起は、高野山、伯耆大山、英彦山などにもあります。
立山開山縁起では、熊だけでなく、鷹狩りの白鷹が重要な役割を果たしています。こうした霊鳥が登場する縁起としては、能除上人が三本足の霊鳥に導かれ、羽黒山を開山したという縁起が知られています。
このように日本各地の霊山の開山縁起には共通点が見られるのですが、「立山開山縁起」の大きな特徴は、はじめに鷹を、次に熊を追いかける二部構成になっている点です。このことが仏教の山として開かれる以前の立山信仰をひもとく重要なヒントではないかと思われます。
次回は、平安時代の仏教説話に登場する「立山地獄」のお話をご紹介します。引き続き、連載にお付き合いいただければ幸いです。
◎立山博物館展示館では、佐伯有頼の物語をデジタルサイネージで詳しく紹介しています。また、玉殿窟のジオラマ(実寸大)があり、阿弥陀如来との出会いも疑似体験することができます。立山開山縁起の世界を、ぜひご体感ください!

呉羽山展望台から望む立山連峰
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