山の日レポート
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『円空の冒険』諸国山岳追跡記(18)【富山県編】 清水 克宏
2025.09.01
江戸時代までは越中国だった富山県には、現在県内で造像されたと考えられている像が27体伝わり、これは、愛知県、岐阜県、埼玉県、北海道に次ぐ数になります。ただし、特異なのは、富山藩が飛騨国との国境に設けた西猪谷関があった旧婦負郡細入村(2025年に富山市と合併)だけに像が集中している点です。円空は越中国へ、どのようなルートで、いつ、どのような目的で入国したのでしょうか。当時の街道風景を思い描きながら追いかけます。
富山県の円空像
富山県には、30体の円空像が確認されており、そのうち24体までが西猪谷関周辺の加賀沢、蟹寺、猪谷、庵谷の集落に伝わります(表1、画像1)。富山県で円空の像が最初に発見されたのは、昭和47(1972)年8月、加賀沢の白山宮でした。加賀沢は、神通川の上流である宮川沿いの、飛騨と国境を接する集落で、当時すでに廃村になっていました。当地区の円空像発見に関わられた円空研究家の小島梯次氏によると、「最初に細入村を訪れたのは加賀沢地区であり、無住の集落であった。白山宮があり、偶々山仕事にお出でになっていた方に許可を得てお参りをさせて頂いた。そこに円空仏五体が、にこやかな微笑みをたゝえて鎮座されていた。昭和四十八年十一月、北隣の蟹寺集落の白山神社から二体の神像の発見があり、相次いで慈眼院から三体、民家から六体の観音像が見出された。その後、細入村役場の御協力もあり、昭和五十五年までに、加賀沢(旧住民)二体、猪谷で三体、庵谷において三体の発見があり、細入村内で合わせて二十四体の円空像の存在が明らかになった。」(富山市猪谷関所館編『祈りを彫る 円空 旧細入村の円空仏』への寄稿文)という、発見の経緯だったそうです。
表1:富山県の円空像一覧
旧細入村以外の像として、富山市五番町の光厳寺に、観音菩薩、善女龍王、善財童子の三尊像が伝わります。同寺は富山藩主の菩提寺であった曹洞宗の寺院で、収められている厨子の銘文から明治13年、寄附人池上近直が同寺に施入していることが分かります。同人は元富山藩士だったようです(『こまさらえ 越乃中州研究資料』古谷常蔵/編・刊)。光厳寺の末寺に猪谷の西禅寺があること、西猪谷関周辺以外に円空の像は伝わらないことなどから、円空が富山城下を訪れ造像したのではなく、猪谷周辺の像が移された可能性が高いとおもわれます。それ以外の3体の像は県外で造られたと考えられます。
なお、ここで留意が必要なのは富山県=富山藩領ではないことです。富山藩は、寛永16(1639)年、加賀藩第3代藩主前田利常が隠居するとき、次男の利次に富山10万石の分封を幕府に願い出て許され、成立したもので、越中国の中央部のおおむね神通川流域だけが藩領でした。両白山地のある西側も、立山など飛騨山脈のある東側も加賀藩領で、立山奥山の国境警備にあったった奥山廻りも加賀藩の組織です。飛騨との国境においても神通川左岸の西猪谷関は富山藩でしたが、右岸は加賀藩で、東猪谷関が置かれていました。円空の像は富山藩領だけに伝わり、加賀藩領には確認されていません。
画像1:旧細入村の円空像24体 [出典]富山市猪谷関所館編集・発行『祈りを彫る 円空 旧細入村の円空仏』 撮影 前田邦臣氏
飛騨国高山と越中国富山を結ぶ街道は、飛騨では越中街道、越中では飛騨街道と呼ばれ、飛騨からは鉱物などが越中に運ばれ、越中からは米や塩、魚などが飛騨に運ばれました。飛騨や信濃では、富山湾で穫れた「越中ぶり」を、大晦日の「年取り魚」として食べる風習があったことから、『ぶり街道』とも呼ばれていました。そのルートは、高山から富山に向かう場合、上広瀬(高山市国府町)までは一本で、その先は神通川の支流で飛騨山脈から流れ出る高原川沿いに「越中東街道」が、神通川の上流である宮川沿いに「越中西街道」が通り、国境で両川は合流し、神通川と名を変え、以後その西岸を西街道、東岸を東街道が通っていました(図1)。
そのうち、越中東街道を、下高原郷の中心舟津(飛騨市神岡町)から北に向かうと、高山藩主金森氏の菩提寺である曹洞宗素玄寺の末寺が、西漆山の正眼寺、西茂住の徳翁寺、東茂住の金龍寺とあり、そのうち金龍寺に円空の阿弥陀如来像など3体が伝わります。金龍寺は、初代高山藩主金森長近のもとで、茂住・和左保の両銀山、森部金山などの開発にあたり、飛騨鉱山開発の祖といわれる金森宗貞(茂住宗貞)の邸宅があった場所に、彼の菩提を弔うために創建された寺です。そのほか、東猪谷に接する中山集落に個人蔵の観音小像が伝わるほか、円空は高賀神社に残した和歌に、東街道沿いの地名を織り込んだ歌を次のようにいくつも詠んでおり、思い出深い旅だったのでしょう。
吉ヶ原<ヨシカワラ> 清[ ] 岩をの下の 苔(の)庵に (神岡町吉ヶ原)
漆山 御池の龍の 燈(ともしび)は □□に 天地(あまつち)の神 (同町西漆山・東漆山)
堂といふ 止(とどま)る馬の 足絶(へ)て いさミにかくる 法(のり)の橋哉 (同町土)
もすミなる 谷の藤橋 結(ぶ)らん 山おり姫の 幡(はた)かとそミる (同町茂住)
深山木(みやまぎ)を たおして入る 横山ノ 作(れ)る家の ミねのかすかす(同町横山)
一方、越中西街道には、素玄寺の末寺が洞泉寺、観音寺、光明寺、長久寺、玄昌寺、久昌寺と連なっており、そのうち長久寺に韋駄天像が伝わるほか、檀家などから施入された場合も考えられますが、洞泉寺、光明寺、久昌寺にも円空像が伝わり、神社や民家にも確認されています。
この両街道に残る像は、数が多くなく、集中もしていませんから、円空は越中をめざす目的で東街道あるいは西街道のいずれかをたどり、猪谷周辺で一定期間滞在後、往路と違う方の街道をたどって戻ったのでしょう。
図1:富山と高山を結ぶ街道と旧細入村の位置
円空が越中に入国した時期を絞り込んでいくには、まず、飛騨でどのように造像し、山籠修行したかを特定していくことが先立ちます。
円空の山籠修行の期間については、天和2(1682)年の日光山の場合、120日であったと所野滝尾神社の稲荷大明神立像の銘文から分かります(「日光山一百廿日山籠/(梵字)稲荷大明神/金峯笙窟圓空作之」)。そして、御嶽については、当時、山麓で75日または100日精進潔斎の修行を行った者だけに年1回の登拝が許されており、円空は、長野県南木曽町等覚寺の天神像を造った貞享3年の6月から、同寺の弁財天十五童子像を造った8月の間にそのような厳しい修行を経て御嶽に登ったと考えられます。また、笠ヶ岳については、本覚寺(高山市上宝町)の住職椿宗が文政8(1825)年に記した『大(カサ)ヶ嶽之記』に「元禄年間濃陽弥勒寺開祖圓空聖人當郡五嶽練行之時就ク中 大<カサ>ケ嶽者阿観百日密行満願之霊跡也 即チ大日如来ヲ彫刻安置セ為リ」と、百日間山籠修行を行った旨を記しています。その時期は、笠ヶ岳および双六岳に登った後に造像したと考えられる双六川最奥の金木戸集落に伝わった今上皇帝像の背銘(現桂峯寺蔵)に「元禄三庚午九月廿六日」の日付が墨書されていることから、9月以前の夏季であったことが分かります。以上から、円空の山籠修行の期間は、今の夏山シーズンに重なる、旧暦の6月下旬から9月まで(新暦の7月下旬から積雪前の10月上旬頃まで)と考えていいようです。飛騨代官長谷川忠崇が著した『飛州志』に記される、乗鞍岳の大丹生池周辺での山籠修行も同様に百日近かったのではないでしょうか。
円空が飛騨を拠点に山岳修行をしていたのは、貞享2~4(1685~1687)年頃、および元禄3、4(1690、1691)年頃と考えられ、金木戸集落に伝わった十一面観音像(現桂峯寺蔵)の背銘「頂上六仏 元禄三年 乗鞍嶽 保多迦嶽 □御嶽(於御嶽と宛てて笠ヶ岳と考えられる) 伊応嶽((焼岳の飛騨側の呼称) 錫杖嶽 二二五六嶽(四五六嶽:双六岳)」や、文献などに基づくと、それ以前に乗鞍岳、御嶽、焼岳(硫黄嶽)、穂高岳(保多迦嶽)、錫杖岳に登っていたと考えられます。そして、円空像の背銘や、棟札、文献など明確に円空の足取りが特定できる事象を踏まえて、円空の山岳修行の時期を特定していくと、表2「円空の飛騨での山岳修行の想定時期」のようになります。円空像の作風が、貞享期は板殿集落の薬師堂の薬師如来立像のように、いかにも「鉈ばつり」した豪胆な作風であるのに対し、元禄期の像は、年齢を重ねたせいか、簡略化はされているものの、力強さはやや影を潜め、表情などに手数を掛けるなど、変化がみられることも、時期推定の手がかりになります。
以上の検討を踏まえると、円空が、越中街道をたどりながら猪谷周辺に入ったのは、元禄2年8月9日、滋賀県大津市園城寺の尊栄大僧正から「授決集最秘師資相承血脈」を承け、併せて、自坊の関市池尻の弥勒寺が天台宗寺門派総本山園城寺内霊鷲院兼日光院末寺に召し加えられた後、同年秋から翌3年の夏、金木戸から笠ヶ岳に登る以前の期間に絞られます。そして、井の谷(いのたに)の 説(く)か御法の□花なれや 春の初(めの) 鶯のこえ という歌を詠んでいることから、元禄3年の初春前後と推定されます。
表2「円空の飛騨での山籠修行の推定時期」
旧細入村に伝わった円空像の多くは、西猪谷関の歴史などを展観する猪谷関所館(富山市猪谷)に寄託・常設展示されています。
細入村は、明治22(1889)年町村制の施行により、それまでの婦負郡笹津村、割山村、岩稲村、楡原村、庵谷村、片掛村、猪谷村、蟹寺村、加賀沢村をもって発足しました。そのうち、円空の像は、飛騨に近い、山あいの加賀沢、蟹寺、猪谷、庵谷の4集落に伝わり、ほかの集落には確認されていません。この4集落の円空像と和歌を手掛かりに、現地に立って円空の足取りを追っていきます。
旧細入村の南端にある加賀沢は、飛騨の口留番所のあった小豆沢集落と接していました。円空は小豆沢について、法(のり)の道 今日ハ旅ねの 草枕 あづき(の)関の 厂(かり)ノ餞々(はなむけ)二 と詠んでいます。円空にとって越中への旅は、仏道修行の旅であったのでしょう。
旧細入村で最初に発見された白山宮の神像3体には、中尊(51.0㎝)の背銘に「白山妙理大権現」、脇侍(いずれも26.0㎝)にそれぞれ「白山金剛童子」、「白山不思儀(議)十万金剛童子」と墨書されています。さらに仏尊を象徴する梵字(種子)がいくつも書かれていますが、共通するのは、十一面観音、阿弥陀如来、聖観音を意味する梵字で、これは白山三所権現を表しています。円空は終生白山を信奉していましたから、白山宮に三尊の像を納めたのでしょう。白山宮からは、ほかに虚空蔵菩薩像(16.2㎝)、観音菩薩像(11.2㎝)も発見されましたが、小像なので元は民家にあったのかもしれません。ほかにも2体の小像が民家に伝わっていました。加賀沢の白山宮は、以前『岐阜百秀山』執筆のため岐阜・富山県境の唐堀山(1,159m)を調査登山した折、国道沿いに駐車した、その真向かいだったので驚きましたが、崩れた廃屋のそばに祠だけが今も残されてありました。
画像2:加賀沢白山宮(左から)白山金剛童子像、白山妙理大権現像、 白山不思儀(議)十万金剛童子像
次の蟹寺は、慈眼院という寺にまつわる化け物蟹の伝説が地名の由来のようです。今は無住となった慈眼院に、善女龍王像(30.7㎝)と善財童子像(29.5㎝)、そして観音菩薩の小坐像(10.3㎝)が伝わります。円空は晩年、十一面観音と善女龍王、善財童子を三尊像形式で多く造顕していますから、十一面観音像もあったのではないでしょうか。山寄りの白山神社にも、白山神の像が2体(30.5㎝、29.0㎝)伝わります。蟹寺は7戸の集落で、観音菩薩の小坐像が確認されており、慈眼院の像も含めて、円空は全ての家に像を残したのでしょう。蟹寺集落と、宮川の対岸にある加賀藩領の谷集落と間には橋は架けられておらず、深い谷を籠に乗ってわたる「籠の渡し」があり、難所として知られていました。猪谷関所館でVRで籠の渡しを体験しましたが、館長に籠を揺らしていただき、なかなかスリルがありました。珍しい景観のため、博物大名として知られる富山藩10代藩主・前田利保や、藩主の菩提寺光厳寺の方丈が末寺の西禅寺で法要があった際に見物に来た記録も残ります。円空は、打(ち)渡る 作る越しの かこはし(籠橋)や 只ひとすしに 渡る厂(かり)かね の歌を詠んでいます。
猪谷には、観音菩薩2体、地蔵菩薩1体の小坐像が民家に伝わります。次の片掛には、円空像は伝わらず、庵谷峠を越えた庵谷に、観音菩薩像などの小像が3体伝わります。
また、円空は、片掛の対岸の吉野、庵谷の対岸の寺津についても次のように、それぞれの村に幸あれと寿(ことほ)ぐ歌を詠んでいるので、加賀藩領に足を踏み入れた可能性もあります。
祝(ふ)とて 吉野々山の 花なる賀 とるさかきき(榊木)ハ 白木こかねか
渡津海(わたつみ)の 神の住家の 渕なるか 寺州(の)里を 守り在(ましま)せ
旧細入村はこの先、楡原、笹津と富山平野に向け開けていくのですが、円空の像は確認されていません。
画像3:猪谷関所館のジオラマにみる関所付近の地勢、画像4:深い谷を流れる神通川
以上のように、円空は越中街道を北上し、富山藩の西猪谷関周辺に元禄3年の初春前後に、一定期間滞在し、加賀沢、蟹寺、猪谷、庵谷の人々とも深く関わったことがうかがわれます。円空が越中に向かった事情については明らかではなく、従来、白山と並ぶ霊山である立山に向かうためではと推測する説が出されていました。
円空は、背銘に白山、富士山(浅間)、乗鞍岳の名を持つ神仏像を多く残していますが、立山に関しては、下呂市小川の神明神社に「立山大明神」と背銘に記された像が唯一伝わります。ただし、同社には、明治時代の合祀令で集められた、白山、富士浅間、鹿島、熊野など多くの権現・明神像も伝わり、立山大明神はその1体に過ぎません。また、越中に現存する円空像に、白山神は伝わりますが、立山信仰に関わる像はなく、立山周辺にも円空の活動の跡は確認されていません。表2「円空の飛騨での山岳修行の推定時期」を見る限り、円空が立山に山籠する機会は、おそらくなかったはずです。
ただし、円空が高賀神社に残した和歌で、先にご紹介した、井の谷 (いのたに)の 説(く)か御法の□花なれや 春の初(めの) 鶯のこえ と同じ紙に、続いて 丑刁(うしとら)の 鉾の御神の 主しして 普く守る 光在せ という歌が記されています。猪谷からみて丑刁(丑寅)の方向、すなわち東北には立山や剱岳があります(図2)。立山あるいは剱岳を鉾の御神ととらえ、いつかは登りたいと、山岳修行のオフシーズンに越中の南端まで訪れ、造像しつつ情報収集を行った可能性はありそうです。円空が高峰に焦がれる思いは、案外クライマーのそれと重なるものだったのではないでしょうか。
図2:猪谷と立山の位置関係
<参考文献> 富山市猪谷関所館編集・発行『祈りを彫る 円空 旧細入村の円空仏』
細入村史編纂委員会編『細入村史』
小島梯次氏著『円空仏入門』(まつお出版)
<注意> 画像の無断転載を固く禁じます。
(次回は、2025年10月1日岐阜県飛騨地方編Ⅱを掲載予定です)
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