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山の日レポート

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自然がライフワーク

『円空の冒険』諸国山岳追跡記(14)【栃木県編①】  清水 克宏

2025.05.01

全国山の日協議会

円空を日光に追う

 かつては下野国だった栃木県には、東日本を代表する山岳霊場日光があります。栃木県には移入された像を除き16体の円空像が確認されていますが、そのうち11体までが、日光で造られた像です。日光市所野の滝尾神社で発見された円空の稲荷大明神立像には、「日光山一百廿日山籠/(梵字)稲荷大明神/金峯笙窟圓空作之」と記されており、円空が日光山中で120日にも及ぶ山籠修行をしたことがうかがわれます。また、鹿沼市廣濟寺に伝わる日光中禅寺の本尊である立木観音を模した千手観音菩薩立像には、「(梵字)傳燈沙門高岳法師/天和二戌九月九日圓空刻之」と背中に墨書されており、天和2(1682)年に輪王寺光樹院の住職であった高岳のために造像していることが分かります。円空の日光での山岳修行がどのようなものだったのか、また高岳とどのような関わりを持ったのか、山岳修験の古道もたどりながら2回に分けて追いかけます。

日光はどのような場だったのか
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 前回の群馬県編でご紹介したように、円空は、延宝8年(1680年。9月天和に改元)上野国(群馬県)で修行・造像した後、いったん関東での造像の拠点であった武蔵国(埼玉県)に戻り、翌天和2年、渡良瀬川沿いに足利、桐生、大間々を経由し、足尾銅山街道をたどるルートで日光へ入ったと考えられます。日光以外に伝わる円空像5体のうち唯一の大作である足利市永宝寺に伝わる蓮華を持ち微笑む観音菩薩立像(68㎝)は、その折の作像と考えられます。
 さて、日光には、二つの顔があります。ひとつは、世界遺産「日光の社寺」として知られる、徳川家康を神格化した東照大権現を主祭神として祀る日光東照宮と、日光山輪王寺、日光二荒山神社から構成される二社一寺です。明治初年の神仏分離以前は、この二社一寺を一体として「日光山」と呼んでいました。東照宮は、元和3(1617)年、前年に亡くなった徳川家康の遺言に従い、二代将軍秀忠が慶長18(1613)年、日光山の53世管貫主に就いていた天海大僧正に命じ、駿河国久能山から日光に改葬して造営されたものです。現在の威容は、家康の二十一回忌にあたる寛永13(1636)年、三代将軍家光が命じた寛永の大造営によるもので、円空は、そのきらびやかな堂宇を目の当たりにしたことでしょう。

画像1:東照宮陽明門

 日光のもう一つの顔は、下野国の僧・勝道(735~817年)が開いた、山岳霊場としてのものです。男体山はかつて二荒山(ふたらさん)と呼ばれ、観音菩薩の降り立つとされる伝説の山・補陀落山(ふだらくさん)と重ね合わせて信仰されていました。そして、日光とは、二荒(にこう)が転化したものといわれます。
 日光山の開山は、勝道が修行の場を求め大谷川(だいやがわ)を遡行し、天平神護2(766)年、その北岸に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされます。翌神護景雲元(767)年に、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことが二荒山神社の始まりとされ、この祠は現在別宮となっている本宮神社にあたります。この地を拠点に、勝道は二荒山登頂をめざし、同年4月上旬最初の登拝を試みますが、雪深く険峻で、雲、霧、雷に阻まれます。天応元(781)年4月上旬に再度挑むも失敗。翌天応2(782)年3月、諸神のために写経した経文や仏像を背負い、命を捨てる覚悟でようやく登頂に成功し、中禅寺湖畔に神宮寺を建てます。この事跡は、弘仁5(814)年、空海が『沙門勝道 歴散水 瑩玄珠之碑 并序』として記しています。
 以後、日光山は山岳霊場として信仰を集め、特に中世から戦国時代にかけては修験が勢力を持ち、最盛期には三百余坊を数えたといいます。しかし、天正18(1590)年に豊臣秀吉が小田原北条氏(後北条氏)を下した小田原合戦において、僧徒が北条氏側に加担したため、秀吉の怒りにふれ、広大な寺領のうち門前屋敷と足尾郷を残して没収され、日光山はいったん衰退し、修験の伝統も途絶えました。これを再興したのが前述の天海です。
 このような二つの顔を持つ日光で、円空はどのように行動したのでしょう。

画像2:輪王寺に立つ勝道上人の銅像。背後は本堂の三仏堂

日光の円空像を訪ねて

 円空の日光での足取りを追うため、まずは日光に由来する11体の円空像を、できる限り拝観しました。それは、日光山の歴史をしのぶ体験ともなりました。

〇中禅寺・輪王寺
 中禅寺は、寺伝によれば延暦3(784)年、勝道上人が船で湖を遊覧していた際に、湖上に千手観音の姿を感得し、桂の木に立木のまま千手観音像を刻み、同像を本尊として開かれたとされ、「立木観音」という通称で知られます。当初は、二荒山神社の神宮寺として、中禅寺湖の男体山登拝口近くに「補陀洛山中禅寺」として建立されました。現在の日光二荒山神社中宮祠(ちゅうぐうし)がこれにあたり、その観音堂に千手観音像が祀られていました。明治初年の神仏分離で輪王寺の別院となった後、明治35(1902)年の大山津波によって観音堂が湖上に押し流されたにもかかわらず、本尊は無傷のまま湖上に浮かび、現在は歌ヶ浜に移転・再建された観音堂に祀られています(画像3)。
 冒頭でふれたように、円空は高岳の銘のある廣濟寺の千手観音菩薩立像(155.8㎝)を造顕していますが、この像は立木観音の像容にならっています。円空はその後も、千手観音像をいくつも造像し、飛騨千光寺では立木の仁王像を彫っているのも、その影響を受けてのものでしょう。

画像3:(左)中禅寺 千手観音立像(立木観音)

 中禅寺には、円空が関東で造った像の中でも、ひときわ入念な薬師如来坐像(63.6㎝)と不動明王坐像(40.5㎝)が伝わり、現在は輪王寺宝物殿に収蔵されています(画像4-1、2)。そのうち不動明王坐像を輪王寺の宝物殿で拝しましたが、武蔵国(埼玉県)の幸手不動院とその末寺で造られた像と同様、右手は鍔が三つに分かれた三鈷剣を持ち、左手は手前に手の甲を見せて羂索を持つ像容で、力強さがみなぎるものでした。また、輪王寺にも、どの堂に由来するものかは不明ですが、阿弥陀如来坐像(44.8㎝)と観音菩薩坐像(32.8㎝)が伝わり、宝物殿に収められています。

画像4-1:(左)中禅寺 円空作 薬師如来坐像、4-2(右)同 不動明王坐像

〇清瀧寺

 中禅寺湖畔からいろは坂を下って日光山に向かう途中にあるのが清瀧寺です。この寺の前身は明治の混乱期に無住となってしまった清瀧寺と円通寺で、明治42(1909)に両寺を合併して円通寺の場所に清瀧寺の名で復興したものです。清瀧寺は、寺伝によれば、弘法大師が創立、後に慈覚大師によって天台宗に改宗され、満願寺(江戸時代に改称される前の輪王寺)別院となったとされます。円通寺は、寺伝によれば、勝道が中禅寺の千手観音菩薩像と同じ桂の木で作った本尊を安置するために創建されたとされ、中禅寺は女人禁制だったため、女性の信仰を集めたといいます。この寺に円空の不動三尊像が伝わり、4月15日の清瀧観音護摩供・大般若転読会の御開帳の折だけ拝観できるということで、伺いました。
 光背の火炎を木の割れ目をそのまま生かすなど、円空の像の中でももっとも大胆な造形をみせる三尊像の由来ははっきりしないとのことですが、円空は法華経とともに、大般若経を篤く信奉していましたから、美術館などではなく、その転読の場で拝すると、ひときわ胸に迫るものがありました(画像5)。

画像5:(左から)清瀧寺 制咤迦童子立像、不動明王立像、矜羯羅童子立像

〇高岳とゆかりの円空像

 冒頭で触れた廣濟寺の十一面観音菩薩立像の背銘を墨書した高岳は、円空訪問当時輪王寺光樹院十二世の住職でした。天海が再興した輪王寺には、祭祀に携わる衆徒と呼ばれる教学と法会に携わり一山の重職の選出を行う清僧の坊が約二十坊、峰入りや堂舎での法会に携わる一坊のもとに清僧修験坊が八十坊あり、光樹院はこの衆徒の坊で、当時の本坊のすぐ南にありましたから、重要な位置を占めていたのがうかがわれます。『光樹院歴代之記』には、高岳の出生については「武州江戸ノ産也。其俗氏詳ナラズ」とあります。光樹院住職として、甲府藩主でのちに六代将軍家宣となる徳川綱豊の日光参詣の宿舎となった折の接待を行い、円空が日光を訪れた翌年にあたる貞享元(1684)年に日光山が火災に見舞われ、光樹院も類焼した折には、綱豊の寄付を受けて再建にあたっています。そして元禄3(1690)年には大僧都となり、同7(1694)年には中禅寺の二百十一代の上人に任じられ、同9年5月に61歳で没しています。したがって、円空より3歳ほど年下ですが、ほぼ同じ年頃だといえるでしょう。そして、後に男体山の登拝口にあたる中禅寺の上人を務めているほどですから、山岳における修行も相当重ねていたと推測されます。

画像6:輪王寺境内。右手の本坊跡には現在宝物殿がある。左手に光樹院などの坊が並ぶ

 円空は、高岳から密教の秘法を伝授されており、その書面が関東から帰還後、西神頭家が祭祀していた郡上四十九社の中心的な神社であった星宮神社(郡上市美並町)に収められ現存します。そのうち『(梵字3文字:ス・サ・ラか?)童子先護身法』の末尾には「沙門高岳 円空示/天和二戌九月吉日」と記され、『七仏薬師一印秘法』の末尾には「天和二戌九月五日 附与円空 無観無行高岳」と記されます。
 そして、9月9日には、円空が造顕した廣濟寺に伝わる十一面観音菩薩立像に、高岳が背銘を記しています。同像には別の筆跡で「奉納延享元甲子年(1744年)五月月中旬 円観坊 覚詮」と記されます。円観坊は光樹院の近くにあった修験の一坊八十坊のひとつでした。鹿沼の廣濟寺に移されたのは文化年間(1804~1817年)頃といわれます。
 また、野口薬師堂で発見された円空作の閻魔王坐像の背には、「旹寛文六年冬月予息障/立印修法至五七日夢閻魔/王告曰求聞持咒日日三十/五遍唱永不可随悪趣云々/一念三千依正智成佛/比丘高岳敬白」と墨書されています。これは、高岳が寛文6年に見た閻魔王のお告げを聞いた話を円空が聞いて造像し、高岳がその由縁を記した像と考えられます。
 このように、円空と高岳の関係は非常に親密であったことが伺われますが、近年この高岳が自作した十一面観音立像が、輪王寺の宝物殿で発見されました。同像が当初どの堂に収められていたかは定かではなく、室町期頃の像と思われていたそうですが、補修を行ったところ、桂材の像内に法華経をはじめさまざまな経や小像が納入されていることが確認されました。さらに左腕材の内側には、「(梵字14文字)奉供養 十一面観自在尊法華経読誦爲慈母妙性菩提而巳 元禄六酉八月廿九日 傳燈大僧都高岳」と墨書されており、この像は高岳が元禄6(1693)年に亡き母の菩提を弔うために造ったものであることが明らかになりました。円空が中観音堂本尊として造顕した十一面観音像と像容が共通するばかりでなく、供養のために像内納入品を納めていること、そしてその背景に法華経の女人成仏の思想があることなどが共通します。このことから、円空が造像し・高岳が秘伝を教えるというだけにとどまらず、信仰の根源で深い信頼関係を築いていたことがしのばれます。

画像7:輪王寺 高岳作 十一面観音立像(元禄6年)

 格式ある輪王寺光樹院の住職であった高岳と、関東へ巡錫する直前の延宝7(1679)年、「仏性常住金剛宝戒相承血脈」を園城寺の尊栄から承け、40歳後半にしてようやく正式な天台宗寺門派の僧となった旅の僧である円空が、なぜこれほど深い関わりを築けたのでしょう。その手掛かりは、冒頭にご紹介した稲荷大明神立像の、「日光山一百廿日山籠/(梵字)稲荷大明神/金峯笙窟圓空作之」という銘文にありそうなので、➁で、その謎を日光山中に追います。

<参考文献> 宮田登氏・宮本袈裟雄氏編『日光山と関東の修験道』(1979年 春秋社)
       宮家準氏著『修験道組織の研究』(1999年 春秋社)
       『円空学会だより』第28号 谷口順三氏「高岳法師について」(1978年)
              
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