
山の日レポート
山の日インタビュー
降旗義道 信州白馬山麓から世界に羽ばたく (第八回:最終回)
2025.12.30
信州白馬から世界に打って出た降籏義道氏と山の日協議会科学委員の鹿野勝彦氏の対談形式での話も最終回を迎えま
した。
―― 「それで、日本の山岳ガイドは組織としては統一されたことになったわけだね。」
降籏 「そう。で国際山岳ガイド連盟にも加盟できたんです。それにもヘックマイヤーさんたちがすごく応援してくれ
た。ついでに言うと、国際ガイドの資格を取ったんだけど、日本では俺が最初です。それにもヘックマイヤーさん
の応援があった。彼は、っていうか、あのご夫妻は、俺にはかけがえのない恩人だね。」

ヘックマイヤー氏 と 国際ガイド資格のピンバッジ
―― 「そこで聞きたいのは、もともと案内人組合の歴史を受け継いできた降籏さんから見て、今の日本の山岳ガイド
のあり方について考えてるのはどんなことですか。」
降籏 「都会出身のガイド、その中には大学山岳部や一般の山岳会出身の人も結構いて、中には俺から見てもクライマ
ーとして優秀な人はそれなりにいるけど、彼らは基本的にはお客さんを日本中どこの山にでも連れて行って、時に
はヒマラヤやアルプスなど世界の山に案内して、終わればそれで帰っておしまいなことが多いわけだよね。それが
悪いとは言わない。
でも俺たちは、地域の山そのものっていうか、その山麓やそこにある施設を維持管理したり、それらについて
必要な情報を発信したり、事故があれば遭難救助に向かう、登山道が荒れて来れば補修作業もする等行政と協力
してそれに対応したり、いろんなことをやってる。
そんなことの延長がボルネオ島のキナバル山(4095m)の新登山道建設にもつながった。10数年前キナバル山
近くで大地震があり、岩壁の大崩落で18名登山者亡くなった。そして従来の登山道が破壊されてしまった。フラン
スやカナダの登山家にアドバイスをもらったようだが満足いかず。マレーシア観光省からJICAを通して日本に
依頼が来た。
知人のJICAの専門職員から『あんたならできると思う』と私に話がきた。現地に赴き新しいルートを提案し
岩雪崩のあった岩壁帯も突破して、地震発生以来、最初の登頂者となった。最終日、観光省の局長から夕食に招待
された、翌日には大臣が食事を一緒にとお声がかかったが、フライトの都合で失礼した。後日、マレーシア観光省
からJICAに『素晴らしいルートの提案をいただいた』とメッセージが入り、紹介した知人も喜んでくれた。
私自身も地元のみならず、国外でお役に立てたことは嬉しかった。
だから、ヨーロッパでもそうだけど、ガイドとしては、そういうあり方が本来だと思う。でも日本ではまだその
辺が弱いっていうか、地域にもよるけど、全体としてはとても充分にできてるとはいえない。まあ俺たちにも責任
の一端はある。俺たちはどうも情報発信は苦手なところがあって、そこらは都会出身の人たちには、どうしても適
わないじゃないですか。」

ボルネオ島のキナバル山(4095m)
こんなこともあった。来年、イタリア・コルチナで冬季オリンピックが開催される。これに新種目として山岳ス
キー競技(SKIMO)が入った。20年ほど前になるが、国際山岳連盟がSKIMOをオリンピック種目に入れるべく
運動を始めた。ついてはアジア地区を代表する日本でも、競技を開催してほしいという要望が日本山岳スポーツク
ライミング協会に入つた。
時の会長が山とスキー両方できるのはあんたしかいないから、頼むと言われた。国際連盟から提示された競技規
則に従い、山岳スキー競技の責任者として十数年携り、オリンピックへの道をつくった。
地元、岩岳観光協会の理事に選任された折、白馬岩岳スキー場では、雪まつりの一環として花火大会をも催して
いたが、メリットが弱いので、『冬のジャズフェスティバル』に替え、テレビ放映もした。そのPR効果は絶大で
10年間続けた。 同じ1980年代初めだが、当時日本ではもちろん世界でも最大、1万人の参加人員を誇っていた
『全国学生岩岳スキー大会』に、読売新聞と日本テレビを後援にすることができた。日本有数のメディアがバック
に付いたことで、出場選手の息は大いに盛り上がった。『全国学生岩岳スキー大会』は今年53回を迎え、押しも押
されもしない大会となった。
さまざまなことをやってこれたのも、山登りを通して多くの人たちに巡り会い協力をいただいたからだ。白馬の
片田舎に住んでいただけならなにもできなかったろう。

SKIMO(山岳SKI競技)
―― 「たしかにそうだよね。僕らが外から見ていても、山岳ガイドっていうと、都会の出身で、海外の登山で華やか
な記録を持ってるような人たちを、まず思い浮かべてしまうところがある。そういう人たちはマスコミに取り上
げられることも多いしね。
でも地味な役割も含めて、地域の山案内人組合にルーツを持つガイドの人たちやその組織のことを、もっときち
んと認識しないといけないって、改めて教えてもらった気がするし、その意味で、世界中で活躍しながら地域にし
っかり根を下ろしている降籏さんみたいな人の役割は、大きいと思う。
ところで、これでほぼ最後の質問になるけど、今後ぜひやりたい、あるいはやらなきゃいけないって思ってるの
は、どんなことですか。」
降籏 「そうねえ。俺は白馬で、もっと言えばこの岩岳新田で生まれ育ってここまで来たわけだから、やっぱりここを
大事にして、ここの素晴らしさをいろんな人たちに伝えていくことかな。このあたりには、岩岳のほかに八方や
栂池みたいな素晴らしいところもあるけれど、ゴンドラの終点からの眺望は、俺は圧倒的に岩岳が素晴らしいと
思ってる。

岩岳マウンテンリゾートから望む後立山連峰
最近は冬だけじゃなく、一年中インバウンドを含めて、結構な数のお客さんが来るんだけど、そのお客さん達も
みんな、眺望は岩岳が一番だっていうんだよね。昔みたいに冬だけスキー客でごった返して、その時期の収入で一
年暮らすみたいなのとは、だいぶ違ってきている。
だから、俺たちも集落や周りのいろんなもの、それも自然はもちろん、例えば日本海からの「塩の道」もそうだ
し、ここらの田んぼのあり方なんかも含めて、地域の住民が伝えてきた暮らし方っていうか、文化みたいのものも
大事にしないといけない。それにはまず、住んでる者が、子供たちなんかも含めて、しっかりそれを認識しないと
いけないじゃないですか。例えば、うちの田んぼなんかも、見てもらうとわかるけど、一筆ずつ石垣で囲ってあっ
て、そこに段差があるでしょう。これって今風に大きな機械を入れるには効率が悪いんだけど、でも元々の地形を
生かして、うまく水が回るようになってるわけで、要するに昔の人たちの知恵と努力の結晶なんだよね。
江戸時代に我々先祖たちが苦労の末、積み上げた石垣は、北アルプスに映え素晴らしい景観を見せてくれる。
この凄い観光資源を、圃場整備のもと破壊されようとしている。
そういうこともちゃんと子供らを含めて伝えていきたいんだけど、いまは必ずしも住民みんなの理解が充分に得
られてるわけでもない。
まあこんなこと考えるようになったのは、歳のせいもあるかもしれないけどね。」

石垣で守られる田圃
―― 「なるほど、そうだよね。今回は忙しいところを長時間ありがとうございました。」
降籏 「いや、俺も自分から話したり書いたりするのが得意なほうじゃないから、いい機会をもらったなって思ってま
す。こちらこそありがとうございました。」

鹿野氏と降籏氏
降籏さんを通じて、我が国の山岳ガイドの歴史を白馬村の素晴らしさをご理解戴けたかと思います。
8回に亘るアクセスに感謝します。

全国山の日協議会理事長(梶氏)と共に
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