山の日レポート
山の日インタビュー
降籏義道 信州白馬山麓から世界に羽ばたく (第四回)
2025.09.01
今回は、ヨーロッパアルプスそしてオートルートにまつわる話です。
―― 「パタゴニアから帰って、次は何が目標になったんですか」
降籏 2年後の1971年、白馬岩岳スキースクールのメンバーをよく撮影に来ていた山岳カメラマンの川口邦男さんから
アルプスのオートルートに行かなかと誘いを受けた。オートルートの名前も初めて聞いた。モンブランからマッタ
ーホルンへ続くスキーツアーコースで100㎞もあるという。日本人はまだ踏破してないけど、岩岳のメンバーは
山に強いから完走できるし、映画も撮りたいという。23,4歳の若い血気盛んな仲間たちを誘い7人で出かけた。
国際山岳観光地であるシャモニーやツェルマットを見るだけでも価値があると思っていた。むしろそちらの方が
魅力的だった。でもモンブラン山群に入って、そのスケールの大きさに感激した。連日、高度差600~700mの
峠を3,4か所越え、そして滑り降りる。私たちが依頼したシャモニーの山岳ガイド(彼は後にシャモニーのガイド
組合長になり観光局長にもなる。私と長いお付き合いとなった)は私たちのパワーとスキーのうまさに驚いていた
(翌年には私を含めた3人が全日本スキー連盟デモンストレーターになっている)。
オートルートは私に刺激的な経験となった。それは日本人の誰もなしたことのない、山(登攀)とスキーの融合
であった。以来、私はスキーを背に急峻なリッジや壁を登り、誰も滑ったことのないルンゼ滑降に傾倒していく。
(注1)オートルート:フランスのシャモニとスイスのツェルマットの全長約120㎞を、氷河や峠を越えてスキーで結ぶスキー上級者用ツァールート
1973年4月、岩岳スキースクールがアメリカスキー研修旅行をした。担当した旅行会社が私にオートルートの
ツアー企画を持ち込んできた。折しも岩岳スキースクールにスキー研修で来ていたスイスの山岳ガイド、エチエン・
クマールと組んでガイドをすることにした。エチエンとはすでに鹿島槍ガ岳から日本海までスキー縦走を成功させて
おり、いい相棒となっていた。エチエンと組んだオートルートガイドは、実にいい経験となった。無事にオートルー
トも終わり、お客さんをジュネーブで送り、私は一人、アメリカ旅行中の岩岳の仲間たちのもとに向かう。
私は旅行会社から地球一周できる航空券をもらっていた。1年間有効、どこの飛行機会社を使ってもよいチケット
だったが。着陸した都市から搭乗することが条件となっていた。
ロンドンで2,3日過ごし、ニューヨークに飛んだ。ところが当時ヨーロッパからアメリカに入って来る日本人など
いない時代。私は日本赤軍のテロリストに疑われた。すぐ に別室に連れていかれて審査が始まった。私はアルプス
の山登りに来た。そして、日本からくる友達と合流して日本に帰ると言っても信用してくれない。取り調べランクが
上がる別室に連れていかれて再審査。結局、4つ目の部屋で解放された。トランクに入っていたピッケルを見てアル
プスで山登りをしてきたことを信用してくれたのだ。ロッキーもいい山だから登って行けと言われたが、また来ると
言って、ニューヨークのダウンタウンに向かうことができた。
数日後、デンバーで仲間たちと合流して気楽な旅行が始まった。最終地はハワイであった。5年前にハワイに来て
いたが、すべてが変わっていた。日本人が溢れていた。そして、驚いたことにどこのお店でも日本語が通じた。
私は本屋に立ち寄ってみた。そこには広いスペースで日本語会話集コーナーがあった。
オートルートガイドは私にとって大きな収穫となった。今後、オートルートのガイドを毎年続けていける自信や
確信を持っていた。
エチエンと別れて4か月ほど過ぎた夏の終わり、黒縁の角封筒が届いた。エチエンの母からであった。それはアル
プスをガイド中、落石を受けて死んだ知らせであった。そして、連れていた少年が無事だったことが、何よりの救い
だと書いていた。少年を庇い、落石の直撃を受けたのだ。ショックだった。それは、私にとって親しい山仲間との
最初の別れであった。それ以後、多くの友を山で亡くしていくのだが・・・・。
翌年も4月から5月にかけて、オートルート、スキーガイドを行った。以後、ほぼ20年に渡ってガイドを行った。
山はいつも晴天が続くわけでわない。時にはスキーのトップさえ霞むホワイトアウトもあった。GPSなどない時代
だ。高度計、磁石と地図、そして感だけでルートを読んだ。私は小学1年から雪道を30分ほど歩いて通学していた。
猛吹雪の時など踏み跡が無くなっているが、無心で歩くうちに家に帰っていた。いわゆる本能的な方向感覚が育って
いたと思う。オートルートでどんな悪条件でもルートを誤ることはなかった。ある年の早朝、モンフォー小屋を出て
最初の峠に向かって登っていた。峠についたときは吹雪となっていた。峠を越えて下ったら戻ることはできない。
スイスやフランスのガイドたちは下降をためらっていた。
アシスタントが「フルさん、この吹雪でもこの先のルート分かりますか?」と聞いてきた。「ルートは読める。
ただ全員が必死になってでも俺に付いてこなければだめだ」と答えた。それを聞いていたお客さんが「どうしても
完走したい。オートルートのために大変なお金と休暇を取ってきたから」という。他のお客さんも次々に必死で
ついていくから完走したいという。他のガイドは全員戻るという。私は峠越えを決心した。知人のスイスのガイド
にディス小屋(ディスとは10の意味。モンフォー小屋から10時間かかることからついた名前)に、私たちが向か
ったことを電話で伝えてくれと頼んで滑降を始めた。峠を3つ超える長いルートである。そして吹雪でホワイト
アウト。私は夏に使うヒツジ番の小屋が途中あることを知っていた。小屋にはストーブもあるだろう。その小屋で
昼食を食べさせればディス小屋に着くことができる。ホワイトアウトの中、ぴったりその小屋にたどり着いた。
午後2時を回っていた。暖を取らせディス小屋に向かう。小屋についたのは6時過ぎだった。全員無事に連れてこれ
たことに安堵した。しかし、猛吹雪の中、峠越えをしたことが、果たしてガイドとしての判断が正しかったのか
どうか、私は自問自答を繰り返していた。
「1960年代の末ごろからは、家や地元の仕事がけっこう忙しくなった。スキーがブームになってきて、うちの地元
の岩岳のスキー場でも、八方や栂池からは遅れるんだけど、ゴンドラが設置されることになったし、スキー目的の
中学、高校の修学旅行なんかもたくさん来るようになって、スキースクールの仕事も増えた。うちがやってた民宿な
んかも冬は予約でいっぱいだったからね。
いまじゃ考えられないけどスキー場のリフトやゴンドラなんかも待ち時間が30分なんてあたりまえで、それでも
お客さんは文句も言わずに並んでたものね。だからスキーのシーズンはまず家から離れられなかった。
うちだけじゃなく、ここらの農家もみんな民宿や土産物屋、スキー用具の店なんかを始めた。まあ、おかげさま
でけっこう儲かったし、それでこのホテルも出来たんだけど。
余談だけど、スキーの大会なんかで、出場者とか、その成績とかを管理、記録するのにコンピューターを導入した
のも俺なんです。技術的なことはよくわからないんだけど、松本あたりから技術者を連れてきてね。みんなから、
そんなの金の無駄遣いだとかいろいろ言われたけど、でもこれからは絶対必要だって言って押し切った」
岩岳スキー場
―― 「そうか。やっぱり新しいことを導入するってなかなか大変なんだ」
降籏 「特にここらではね。でも誰かがやらなきゃならない。それは俺みたいに外へ出る機会があった者の役割かなっ
て思った。
そんななかで、海外での活動としては、ヨーロッパアルプスのオートルート(注1)かな。あれは夏場に行ける
し。俺は1971年に岩岳のスキースクールの若手の連中と一緒に行ったのが最初だけど、日本では初めてだったんじ
ゃないかな。で、あ、俺がやりたかったのはこういうことだったんだって気づいたのね。
それ以降、オートルートには日本人のツアーを組んで、そのガイドで何回も行ったんだけど、日本でも似たよう
なルートを作れないか、いろいろ模索をした。でも、あれはやっぱり大きな氷河がつながってるから出来るんで、
日本じゃ難しいな。
そのころ俺は、スキー背負って岩壁を登って、その近くのルンゼ(岩溝)を下るなんてことをやってたけど、
それは記録には残っても、いくら上級者対象でも、ルートにはならない。
それはそれとして、その間にヨーロッパのガイドやその組織に触れて、これはすごいって思った。ガイド個人の
能力の高さもそうだし、ガイド養成の仕組みや社会的な地位の高さっていうか、そういうことにも感心したけど、
ガイド組合の力や役割の大きさにもびっくりした。地域の環境の整備や遭難救助の仕組みとかね。
日本にもちゃんとしたガイドの組織を作らなきゃって思い始めたのもそのころかな」
―― 「なるほど、日本の山岳ガイド組織とそこでの降籏さんの役割については、あとでまとめて聞くことにするけど、
出発点はそこにあったんだ」
降籏 「そうなんです。で、いっぽうではそのころになると、俺のクライマーとしての実績も多少認められてきたのか
な。いろんな山岳会の人たちもとのつきあいも増えてきた。ヒマラヤに行ったグループが懇親会で毎年うちに
来てくれるようになったり、文登研(旧文部省登山研修所)の講習会の講師に呼ばれて、そこで他の講師の人達
と付き合いができたりね」
文登研(現 日本スポーツ振興センター 国立登山研修所:富山県立山町)
―― 「そういえば、僕(鹿野)が始めてここへ来たのも、日本山学会のナンダデヴィのグループの懇親会のときだね。
あれから50年近く、今でも続いてるけど。お世話になってます」
降籏 「いや、こちらこそ。あれで俺もずいぶんいろんな人と出会ったものね」
「で、1980年の日本山岳会のチベット側からのチョモランマ(エヴェレスト)計画が始まったとき、俺も隊員に
名乗りを上げたんだけど、やっちゃん(加藤保男 PDF参照)なんかが俺を推薦してくれたみたい」
―― 「あれが降籏さんの最初のヒマラヤ登山になるわけ?」
降籏 「そうです。32歳になってたから、ちょっと奥手だけどね。技術や体力にはそれなり自信はあったけど、標高の
高いとこは初めてで、こればかりは行ってみるまでわからない。最初はやっぱり高度順化に結構苦戦した。
標高6000mくらいのとこで高度障害で倒れて、ドクターのお世話になって、酸素を吸わせてもらったりして、
出遅れたけど、それが回復してからはけっこうやれた」
全国山の日協議会理事長と共に(2022年11月)
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