山の日レポート
山の日インタビュー
降籏義道 信州白馬山麓から世界に羽ばたく (第三回)
2025.07.29
今回は、初めての海外遠征「パタゴニア」にまつわる話です。
―― 「パタゴニアが降旗さんの最初の海外登山になったわけだけど、その頃20歳ですね。隊員選考とかはあった
の?」
降旗 「ありました。俺も名乗りは上げたけど、若かったから選ばれるとは思っていなかった。まず、存在を知って
もらって、ヒマラヤが解禁になったとき行ければと思っていました。」
―― 「費用とかは?」
降旗 「全体のことはよく覚えてないんだけど、自己負担金は60万円、当時にとしたら大金だよね。まあ親父が出して
くれた。大学行かずに家にいるんなら、これくらいはいいかって思ったのかな」
―― 「寄付金なんかも集めたの?」
降旗 「もちろん、自己負担金だけじゃたりない。で、いま考えるとおかしいんだけど、隊の正式な名称は、南米大陸
農業調査登山隊っていったんだよね。なにしろ長野の基幹産業は農業だし、寄付金をもらいに行く先も農業関係
が多いじゃない。農協なんかも含めてね。むこうが寄付するときの名目なんかも考えたんだろうね」
パタゴニア
―― 「では、少しそのときの話をしてもらえますか」
降旗 「まず南米って、遠いじゃないですか。俺らの隊は「あるぜんちな丸」っていう船で行ったんだけど航海が50日
ですよ」
―― 「えーっ。その船って南米へ移民を運ぶ船だよね(注)」
降旗 「そうです。たしかほとんど沖縄出身の人たちだった。全部で200人くらいで、家族で来てる人が大部分だけど、
むこうで結婚するために乗ってる、当時は移民花嫁って言ってたのかな、そういう若い娘さんたちも20人くらい
乗ってて、ハワイに着くでしょ。俺らはワイキキの浜辺に一緒にいって遊んだりした。
その頃、まだワイキキ・ビーチは人が少なく、まだハワイなんてあんまり日本人の観光客もいなかったね」
―― 「そうか。僕(鹿野)も最初の海外登山は1965年で、目標はカラコルムだったから、横浜からカラチまで20日
かけて船で行ったんだけど、そんなのは僕らが最後だと思ってた」
降旗 「そのころの飛行機代は高かったものね。それも南米となると半端じゃない。帰りはぶらじる丸っていう、
あるぜんちな丸と同じような移民船で、帰りだからお客はあまりいないんだけどやっぱり50日かかる、だから出発
から帰国までほぼ半年かかったんだけど、その約半分は船のうえです」
―― 「で、登ったのはパイネですね」
降旗 「パイネ山群のパイネ・グランド・ノルテです。俺らの前にはイギリスやチリの連中がトライしたけど、失敗して
る。標高は2760mっていうからたいしたことないけど、緯度がかなり南の方で、南極暴風雨圏に入っていて、まず
天気が悪い。雪もだけど、とにかく風がひどくて」
―― 「パタゴニアのことをLand of Tempest(嵐の大地)っていうくらいだものね」
トレス・デス・パイネ国立公園
降旗 「それで、最後は標高差1000mくらいの壁を登るんだけど、上からは小さな雪崩がしょっちゅう落ちてくる
し、暴風でバランスを崩しそうになる中での登攀でした。
氷は固く、日本から持っていったアイス・ハーケンはまったく入らなかった。俺らの隊では、1次、2次の
チームが失敗して、結局3次のアタックで俺らがようやく初登頂した。
頂稜に抜けるピッチは氷の垂壁で、フランスで発売されたばかりのスクリュウ・ハーケンをねじ込み、アブミ
の架け替えで超えました。日本人でスクリュウ・ハーケンを本格的に使った最初ではないかなと思う。
頂上は20mほどのキノコ雪の塔になっていて、今度はピッケルが簡単に入るほど柔らかな垂直の雪壁だった。
人が立って入れる穴を掘り、使わないアイス・バイルを足元の奥に刺し、アブミをセットして雪穴に立ち、
次は斜め上に同様の穴を掘り登り立つ、微妙な登攀のくり返しとなった。
吹雪の頂上では長居ができない。垂直の雪の塔を懸垂下降で降りる。登ってきた頂稜はアイゼンの爪が入ら
ない固い氷だ。夕闇が迫っていた。クライミング・ダウンでは時間がかかる。
アイゼンをはいたままグリセード*で、登ってきた壁の降り口となるコルまで一気に滑り降りた。
白馬育ちの二人は非対象山稜の白馬岳山頂にいる錯覚に陥っていた。反対側は白馬岳同じ緩やかな斜面だから、
滑落しても止められると思い込んでいた。
(*ピッケルで支えながら靴底を滑らせて下ること PDF参照)
コルでビバークした翌朝、1か月以上悪天が続いていたのに奇跡的に青空になっていた。
頂上へのルートを仰ぎ見たら、幅30mほどの尾根で反対側も絶壁だった。後日談になるが、著名な英国の登山家
「ダグ・スコット」は、著書「ビックウオール・クライミング」に唯一日本人の記録として載せている。そして、
その反対側の壁も今後登る価値があると書いてあった。
BCから望む
―― 「でも、日本ではその登攀はあまり評価されなかった」
降旗 「そう。パタゴニアなんて、日本の登山界ではまだほとんど知られていなかった。でも、欧米の山岳雑誌は評価し
てくれたみたいで、中には、20歳の天才的日本人クライマーが現れたと載せたのもあったと聞いた。
日山協(日本山岳協会)では、そのころ毎年海外登山研修会ってのがあって、俺はその1969年の会を聞きに行っ
ただけで発表する機会は与えられなかった。まあ、人に評価されるために登ったわけじゃないから別にいいんだけ
ど、でもプライド高い英国のダグ・スコットがあの分厚い本「ビッグ・ウォール・クライミング」に、私達の登山
を評価して載せてくれたことは、嬉しかった。
海外登山研修会では、いろんな人たちとあったけど、失礼ながら、俺たちより実力が上の奴はいないと思ったね」
ビッグ・ウォール・クライミング―その歴史・技術・用具 (1977年) 山と渓谷社 発刊
続 く (聞き手 鹿野勝彦:全国山の日協議会科学委員会委員)
船は出港後ロスアンゼルスへ向かい、パナマ運河経由南米へ
RELATED
関連記事など