山の日レポート
山の日インタビュー
降籏義道 信州白馬山麓から世界に羽ばたく (第五回)
2025.10.01
今回は、「ヒマラヤ遠征」と白馬村での「映画祭」にまつわる話です。
聞き手は、鹿野勝彦(全国山の日協議会科学委員会委員)です。
チョモランマ
―― 「1980年の日本山岳会のチョモランマは、目的がチベット側のふたつのルート、北壁と北東稜からの登頂で、
チームも2つに分かれていて、 隊の規模も大きかったし、報道隊員もかなり、総勢50名だったかな。それに初めて
の本格的な日中友好登山ということもあって、はたから見ていてもいろいろ 難しそうだなって思ってたんだけど」
降籏 「それはそうだったね。隊としては一応両方のルートから登ったけど、隊員も一人亡くなったし、リーダー層は
特に大変だったと思う。俺は、北東稜隊に入ったんだ。」
「6000mの第2キャンプで肺炎になり、一人でやっとのこと5000mのベースキャンプに戻り、治療と酸素吸入受け
た。夢うつつの中でドクターの『今夜、持てばいいけど』との言葉を聞いたが朝には大分快復していた。翌々日には
ドクターと散歩がてらに5500m付近まで登り、次の日には前進キャンプへと向かった。結果、発病から1週間後には、
7000mのノースコルに達し、ドクターを驚かせたよ。」
チョモランマ (8,848.86m Mt. EVEREST)
ーー 「肺炎から回復し、その後の活動は」
降籏 「その後は仲間と共に、上部キャンプへの荷揚げを繰り返した。中国協力隊員はノースコルまでしか荷揚げしな
いので、7000mからは我々だけの荷揚げとなり、その重量はいつも20㎏を超えていた。酸素を吸えたのは7800mの
第5キャンプからだったので、7000mから酸素を吸って登る今のエベレスト登山とは格段の差がある。」
「8000mを超えて2回荷揚げし、3回目は登頂後下降できず、8700mでビバークした加藤保男と中村の救援だった。
このときも2本の酸素ボンベ他で20㎏を超えていた。当時20㎏を超えるザックを背負って、8000mより上で3日も行動
した例は他になかったので、個人的にはそれなりにやれたと思った。」
「ヒマラヤ登山の基本的なやり方を経験できたのは、大きな収穫だった。」
前進キャンプからノースコルヘ
ノースコルから北東稜
―― 「で、それが次のマナスル頂上からのスキー滑降を目的にした降籏隊につながったわけだ」
降籏 「そうだね。俺でなきゃできないヒマラヤ遠征を考えたら、どうしてもスキーを全面的に使う登り方しかな
いって思った。で、それに向いてるそれなりに大きい山としては。やっぱりマナスルだなって」
―― 「で、降籏さん自身が隊長になったわけだ」
降籏 「そうです。隊としては、一応イェティ同人の名前でしたけど」
―― 「あ、イェティ同人隊だったんだ。じゃ、雨宮さんの世話になったんだね (注:PDF参照)」
降籏 「そうなんです。あのころはネパールヒマラヤへ登山申請出すにはそれなりの団体でないと出せなかったじゃ
ない。で、以前からお付き合いのあった雨宮さんに頼んだら、ああいいよって、あっさり。」
「結果としては、上部のキャンプのテントが、アタックの前日の夕方に雪崩の爆風でやられ、隊員や高所ポーター
が巻き込まれ高所ポーターが一人行方不明になった。俺は数日前に7,500m付近から試験的に滑ったけど、雪崩で
全てが終わった。」
―― 「ヒマラヤの雪崩って、日本のとは違って、季節にも天候にもまるで関係なく起きるやつがあるからね。
ヒマラヤは結局、その2回ですか」
降籏 「本格的な登山はそうですね」
Mt. Manasuru (8,163m)
―― 「ちょっと話が変わるけど、白馬村で一時期、『スポーツと冒険の映画祭』ってやってましたよね。その経緯について聞かせてもらえますか」
降籏 「あれを白馬でやることになる発端は俺にあるんだけど、もともとはやっぱりオートルートに行ってるあいだにスイスやフランスの人たちとつきあいが深まったとこから出てきたんです。」
「フランスの青少年スポーツ大臣の山とスキー担当顧問がひょんなことから俺を知り、イタリアのトロントで国際山岳映画祭をやっていて、その審査員をやっているので、オートルートが終ったらトロントに来てほしいという連絡がきて、フランス第2国営テレビのプロデューサーを紹介された。」
「二人からフランスのアヌシーで『国際冒険とスポーツ映画祭』を計画しているが、毎年の開催は負担が大きいから日本のどこかの山岳観光地と隔年でやりたいと言う。ついてはアヌシーの市長にも会ってほしいという。」
「シャモニーではアヌシーの市長から、白馬でもやってほしいと口説かれた。」
「帰国後、白馬村長、議会議長、教育長の3役同席でフランスでの経緯を話し、白馬が国際的観光地になるいい機会だと勧めた。村もその気になって、翌年1987年アヌシーで始まり、白馬と隔年で開催され10年間続いた。
そんな折、長野市では冬季オリンピック誘致が進んでいた。結果、長野市に決定するのだが、会場地の一つになっていた白馬で国際映画祭を開催していることが、IOCの評価高める一助になったと聞いた。」
フランスとスイス国境近傍の町 アヌシー
降籏 「日本語の正式名称は『冒険とスポーツの映画・映像祭』」
「開催時期は夏休み中の7月後半で1週間くらい、世界中から映像作品を公募して上映し、村の人たちだけでなく観光客にも見てもらう。コンペとしては外国人の審査員も入った審査委員会で、グランプリの賞を出す。かなり本格的なイベントになった。」
「俺も最初から実行委員会に入ってたんだけど、そういうイベントの開催には、村の連中だけではできないことがいっぱいあるじゃないですか。そこで白馬村の隣、大町市在住の友人扇田さんに協力をお願いした。彼は東京出身で大学出てからサラリーマンをしていたのだけれど、青木湖の近くでペンションを始めていた。彼はなぜか文化人に人脈が広かった。山しか知らない私にとって彼の存在は大きかった。」
「彼とコンビを組んで実行委員会を進めていったんだけど、メンバーは白馬生まれの奴よりも、白馬に移りすんで生活している人たちが積極的に加わり会が充実していった。」
「そこらが白馬村のおしろいところかもしれない」
フランスとスイス国境近傍の町
続く (次回は映画祭とフランスのアヌシーとの話です)
ノースコルを出発して、第5キャンプへ 中央が降籏隊員
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