山の日レポート
通信員レポート
湯俣温泉 晴嵐荘の歩み【後編】
2024.10.22
巨大なロックフィルダムの高瀬ダムを上り、その先の左のルートが湯俣温泉への道です。ここからエメラルドグリーンのダム湖を眺めながら1時間ほど歩くと、樹林帯の中に続く山道となります。
私はもう60年近くもこの山道を歩いてきました。高瀬ダムの上流は開発されることもなく今も昔の姿をとどめています。毎年変わらぬ静かな山道を歩いていると、ふと過去の自分が思い出されます。若かったころの自分、そして父や母と歩いた子供のころの自分がよみがえってきます。さまざまなことを思いながら歩くこと約2時間、風に乗ってかすかに硫黄の匂いがしてきます。硫黄泉のある晴嵐荘はもうすぐそこです。
晴嵐荘は築67年。外装は少し変わったもののほとんど昔のままの姿で皆さんを迎えてくれます。様々な人の思いがいっぱいに詰まった山小屋です。自然の中、皆様に静かでゆったりとした時間を過ごしていただければと願っています。
晴嵐荘の歩み、後編は荒れる高瀬川との奮闘の歴史を綴って頂きました。
(語り 湯股温泉晴嵐荘 三代目竹村正之さん)
昭和46年~昭和54年 高瀬ダム建設。
この時期ダム上流の登山道は荒れ、伊藤新道と槍ヶ岳千天ルートが廃道に近い状態になり、竹村新道のみとなりました。二代目竹村多位司は中上級者向けの竹村新道を一般登山者にも歩きやすい道にするために、長年その整備に努めました。
また高瀬川の水害もたびたび起こるようになり、山小屋の維持は年々大変になっていきました。
父はこうした水害が単に気候変動によるものではなく、ダム建設による河床上昇が大きな要因であると考え、高瀬の渓の変化を見守ってきました。
そして湯股に晴嵐荘という山小屋が在り続けることが裏銀コースをつなぎ、高瀬の渓を守ることになると信じ、山小屋の存続に向けて努力しました。
平成14年、父である二代目多位司が亡くなり、母と私が晴嵐荘を引き継ぐことになりました。事業の継承は大変でしたが、多くの方々からの支援を得、そして何よりも山小屋スタッフに助けられました。
2018年7月、大水害に遭い、晴嵐荘の生命線ともいえる吊り橋が流されてしまいました。開業以来初めてのことで、山小屋はやむなく休業しました。自然の脅威を身をもって感じた出来事でした。
2019年5月、大規模な復旧工事が始まりました。晴嵐荘では、登山者が渡河するために、流木を使って丸木橋を設置したり、渡渉用の飛び石を設置したりしましたが、安定的な渡河手段とはなりませんでした。約15mの川がとても大きな壁となりました。
2022年7月下旬、4年ぶりに吊り橋が復旧しました。重機を使わずほぼ人力で作ったものです。
橋が架かることにより、中高年の登山者や温泉客の受け入れが可能になりました。また、北アルプス裏銀座周回コースがつながり、登山ルートのバリエーションも増えることになりました。今後登山者が増えれば、槍ヶ岳へのクラシックコース復活も夢ではないと考えています。
以上晴嵐荘の歩みを簡単に振り返ってきましたが、幸か不幸か、裏銀座そして高瀬の渓は、黒部や上高地のように観光地化されず、自然が手つかずのまま残されています。これからはより多くの方々にこの地を訪れ、さまざまな自然体験を楽しんでもらいたい、そしてできれば変貌する自然をともに見守っていただきたいと考えています。
ふるさと大町が、岳都、そしてダムの町として、自然と共存しながら発展し、以前の活気を取り戻すことを心から願っています。
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