山の日レポート
通信員レポート
湯俣温泉 晴嵐荘の歩み【前編】
2024.10.18
滑落した同行の友人を放っておけず、風雪の北鎌尾根で死を決した松涛明氏が最後に想ったのは、湯俣温泉のぬくもりだったのかもしれません・・・
1月6日 フーセツ 全身硬ッテ力ナシ、何トカ湯俣迄ト思ウモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ タダカンシャ 一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。
何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ。
ツヨク生キテ下サイ。
・・・・・
今 14:00 仲々死ネナイ
漸ク硬直ガキタ、
全シンフルヘ、有元モHERZ ソロソロクルシ ヒグレト共ニ凡テオハラン・・・
(松涛氏の残した最後の手記「風雪のビバーク」より)
長野県北アルプス、2023年の伊藤新道復活とともに立地の要として鎮座する湯俣温泉。
湯俣温泉で昭和2年から続く晴嵐荘の歩みを、三代目である竹村正之さんに貴重な写真と共に綴っていただきました。2回に渡ってご紹介します。
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晴嵐荘は高瀬川の上流、湯股川と水俣川の合流点にある、三代続く山小屋です。
小屋から15分ほど行くと地獄谷と呼ばれる源泉地帯があり、河原の至る所から高温の硫黄泉が湧き出ています。良い場所があれば、野趣あふれる温泉を楽しむこともできます。
昭和2年、竹村多門治(明治10年-昭和14年)が、湯股のカラ谷沢出合に湯股温泉仙人閣を開業しました。
多門治は地元大町で炭問屋を営んでいましたが、木炭を作る炭焼きのために山に入り、湯股の地を開拓。
その際山小屋も建て、竹村新道と北鎌尾根末端から直登する多門治新道(現在は廃道)を開削しました。
多門治は湯股の地を愛し、亡くなるまでその開発に心を砕いていました。
多門治は仙人閣を開業する前、大正13年に東京電力から工事作業員の宿舎を買い受け、烏帽子岳登山口に濁小屋を開設していました。
濁小屋は残念ながら昭和44年の大豪雨で流失しています。
昭和10年前後には山岳会や大学山岳部の活動が活発になり、登山文化が興隆し、高瀬の渓にも多くの登山者が入りました。
*不世出の登山家、加藤文太郎、松涛明が冬の北鎌で遭難死したことは日本の登山史に残る出来事でした。
加藤文太郎は亡くなる前、最後の力を振り絞って湯股を目指しましたが、千天の出会い付近で力尽きました(「単独行」)。
また、松涛明は北鎌に入る前の昭和23年12月12日、天上沢の様子を聞くために、大町の家を訪れたことが記録されています。
松涛氏は1月6日壮絶な遭難死をとげます。享年26。凍える手で有名な手記(遺書)を残しました(「風雪のビヴァーク」)。
なお、その手記は現在大町山岳博物館に保管されています。
昭和28年、仙人閣が雪崩により倒壊してしまいます。
昭和33年、竹村多位司が、父多門治の遺志を継ぎ、仙人閣のあった場所の対岸に山小屋を開業。
晴嵐荘と名付けました。実は、二代目多門治は三男坊でしたが、兄二人を戦争等で亡くしていて晴嵐荘の建設には一大決心を要したことと思われます。
*この当時は七倉から東京電力の工事資材運搬用の森林鉄道が走っていました。
後年、台風のために林鉄は大きな被害を受けてなくなってしまいましたが、線路はあとまで残っていました。
昭和30年半ば~40年代登山ブームが湧き起こり、晴嵐荘は、北アルプス裏銀座・三俣蓮華・槍ヶ岳への登山口、そして温泉のある山小屋として賑わいました。
湯股川を少し遡った源泉群の地獄谷には国の天然記念物の噴湯丘があり、また湯股温泉の硫黄芝が「地球で最初に生まれた生物」として学術的に大変貴重なものであることが分り、研究者もこの地に入りました。
昭和46年~昭和54年 高瀬ダム建設。黒部ダムに匹敵する日本有数の巨大なロックフィルダムで、建設に8年を要しました。
しかし高瀬ダム建設中、登山者は大型の工事車両が行きかう中、ヘルメットをかぶらされ砂ぼこりの道を歩かされました。
登山者の足は遠のき、北アルプス裏銀座は急速にさびれていきます。
また、いつのころからか大町駅~七倉への登山バスの運行もなくなり、高瀬の渓が外に向かって閉じられていきました。
*湯股の地は、噴湯丘の霰石の採掘場として江戸時代から知られていたようです。(善光寺道名所図会)
後編へ続く
※記事中の写真は全て竹村正之さんよりご提供頂きました。
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