山の日コラム
通信員コラム
ラダックでゴミを考える②
2024.04.21
先に書いたようにインドでは今ラダックが旅行先として大人気だという。車の数より断然バイカーが多く、映画俳優のように赤いスカーフを巻いたり、ハンドルにはミニタルチョをはためかせて峠を越えていく。彼らも含めて多くの人たちが、至る所にある映えポイントで写真やTikTokなどを撮っている。私は写真を撮るための旅行なので、もちろんその場所に立つのだが、仕事柄どうしてもゴミが目に入る。どこへ行っても、お菓子の袋や日用品等のゴミが落ちている。
しかもその殆どはプラスチック由来だ。風が強く雨がほとんど降らず、冬は川が凍るラダック。そのプラスチックたちはどうなってしまうのだろう。風で飛びながら、一部は動物の口にも入り、川に入り、流れに揉まれながら小さなマイクロプラスチックとなるのであろう。雪や氷が解けると、またその小さなプラスチックを生き物が摂取する。土に混ざっていった破片は、全ての生き物と関わっていくのであろうと、足元を見下ろしながら考えてしまう。
私の住む山形県が面している日本海の水と同様に、ラダックの山々に積もる雪や氷河も、もはやプラスチックが入り込んでいない場所はないかもしれない。ゴミの問題は、世界共通だ。いつどうしてこんなにたくさんのゴミが溢れるようになったのか。
100年程前生まれたプラスチックは夢の素材と言われ、私たちの生活にあっという間に浸透し、今や欠かせない物となった。プラスチックは、非常に便利であり、製造加工も安価で簡単、私たちをウィルスや菌からも守ってくれる。もちろん飛行機や自動車、パソコン、スマホ等にも使われており、だからこそ夢のようだった遠い場所、知らなかった世界ともあっという間につながることができる。だが、一方で私たちの便利さのためにだけ作られ、あっという間に役目を終えるシングルユースプラは今この瞬間にも作り続けられ、廃棄されている。私たちが一生の間にどれくらいのプラスチックを使用するのだろう。人間が命を終え、また何かの形となる経緯を何回か繰り返しても、プラスチックは分解されることなく、そこに残り続けるのであろう。
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