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山の日レポート

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通信員レポート

ネパールにおける自動車道路の発達:その2

2023.07.05

全国山の日協議会

文:丸尾祐治さん 写真:吉井修さん

タプレジュンで新たに20名のポーターを雇い、GHT2回目の出発点となるワルンチュンゴラに向けて10月9日に出発し、2日後の11日には標高約3200mのワルンチュンゴラに着いた。ワルンチュンゴラは戸数80戸ほどのシェルパ族の村で、タムール川の河岸段丘上をほぼ南北に走る道路の両側に2階屋の家が並んでいる。この村には400年ほど前に建てられたと言われる、ネパール最古のチベット仏教のゴンパ(僧院)がある。

ワルンチュンゴラの村はずれの高台にあるネパールで最も古いチベット仏教の僧院(写真上部の赤い壁の建物)

高台の僧院から眺めるワルンチュンゴラ村。青いトタンと板で葺いた伝統的な屋根が半々程度に見える。撮影提:丸尾

ワルンチュンゴラで我々が泊まった宿屋の主人はビジネスマンでもあり、3年前のコロナ禍以前までは、この先の中国国境のチプタラでチベット人を相手に商売をしていたとのこと。ネパール側からはヤクの子供やヤクのバター等を売り、チベット側からは中国製の日用雑貨、菓子、ビール等を輸入していた。ワルンチュンゴラにはネパール政府の税関事務所がありこれらの取引を管理していた(現在は閉鎖中)。また、ワルンチュンゴラからチプタラまでは車が通れる道路があった、とのこと。

ワルンチュンゴラには2泊し、GHTの踏査を開始した。ワルンチュンゴラの村はずれには日本製のパワーショベルが放置されており、4輪駆動車かトラクターが通れるほどの道がタムール川本流の左岸沿いにあり、昨夜泊った宿屋の主人が語ったことが思い出された。1日目の宿泊地は標高約3500mのキャンプサイトと呼ばれるタムール川左岸側の平地である。GHT本来の道はここからタムール川を渡り、西方に向かうのだが、我々は高所順応のトレーニングを兼ねて、中国国境の検問所があると言われる標高5095mのチプタラに向かうことにした。

チプタラは1912年に僧侶でチベット仏教研究者である青木文教がインドからチベットのラサに向かう途次この峠を越えている。青木は、当時英国の支配下にあったインドのダージリンでダライラマ13世に会い、彼から直々にチベット入国の査証を受け取っていた。ダライラマ13世は、当時の清国軍がチベットに攻め入り、ラサ付近に駐屯していたためダージリンに逃れていたが、清国で辛亥革命が勃発し、清国軍がチベットから去ったため、彼はラサに帰ることとした。青木はダライラマ13世に帯同してラサに入ろうとしたが、インドを支配していた英国が日本人のチベット入国を拒んだため、蒙古の巡礼僧に変装して、秘かにダージリンからネパールのイラムに入り、ほぼ我々が辿った道を通って「ウルンゾン村」に至る。青木が彼の紀行記で「ウルンゾン村」(注:秘密の国 西蔵遊記 中公文庫)と記しているのは、その記述内容から確実に現代のワルンチュンゴラ村である。

青木文教の紀行記によれば、当時のウルンゾン村にはネパールの税関事務所があり、ヤクの隊商がチプタラを越えてチベットとの間を行き来して、商売が盛んに行われていたらしい。青木はウルンゾン村でこれらの隊商の一つに加わり、チプタラを越えてチベットに入ることにした。ウルンゾン村から途中で1泊し、2日目にチプタラへの急坂を登る際に高山病が激しくなり、最終的には隊商の中で比較的荷が軽そうなヤクの背に乗ってチプタラを越えている。

ワルンチュンの村はずれからタムール川上流を望む。タムール川左岸に沿って車の通れる道が伸び、日本製のパワーショベルが放置されていた。

キャンプサイトからタムール川左岸をチプタラに向かって良く整備された道路が続く。

2023年10月14日、我々はキャンプサイトから途中標高4600mのマウマで野営し、タムール川左岸に建設された自動車道を歩いてチプタラに向かう。タムール川の対岸には、かつて青木文教が歩いたことであろう隊商路(旧道)が見える。左岸側の旧道をタプレジュンで雇った2人のポーターが登っているのが見えた。自動車道はやがてタムール川を右岸側に渡り、右岸側にそびえるサイドモレーンの瓦礫の中をジグザグに登っている。このジグザグ道を登り切り、やや勾配が緩い道に出ると、道端に数字の4を示す標識が置かれていた。チプタラまで4㎞と言うことか。この先道路は大きく左側にカーブしており、峠付近から尾根状の地形が張り出しているため、峠にある筈の中国側の検問所の建物は見えない。張り出した尾根の上から対岸の旧道を登った2人のポーターが、我々に向かって手を振っている。彼らは既に峠まで登ってしまっているのだろう。我々も何とか峠まで辿り着こうとしたが、帰りの行程を考えて、峠までGPSが示す直線距離約800mの地点からマウマの野営地に引き返すこととした。

標高約4600mにあるマウマのカルカ(移牧のための夏小屋)。ワルンチュンゴラから来たシェルパ族の若夫婦が住んでいた。背後の斜面にチプタラに向かう自動車道が刻まれている。

自動車道路の建設工事の班場跡には、日本製の重機が残されていた。背後の雪山は、2020年Visit NepalキャンペーンのTiptalaと称されたポスターに写る山。Ghanlunng(5757m) か?

写真で示すように、チプタラに向かう途中に道路工事の班場の跡があり、日本製の重機が2台放置されていた。ワルンチュンゴラの村はずれに1台、さらにマウマの近くに1台と、都合4台の日本製重機が残されていた。この自動車道路自体はメチ・ハイウェイの一部ではなく、地方自治体が管轄する、いわゆる側道(Feeder Road)であろう。不思議に思われるのは、これらの重機や燃料をいかなる手段でここまで運んだのであろう。メチ・ハイウェイの終点であるタプレジュンからの側道は、今回我々が車を降りて歩き出したレレップ(Lelep)で終わっている。そこから先、ワルンチュンゴラまでは自動車が通れる道はなく、我々が辿った道は、人間や家畜のみが通れる細い吊橋で3回タムール川を渡っている。

まさか、日本製の重機を中国経由で輸入するとは考えられない。重機を分解してヘリコプターで運び、現地で再組立てをしたのであろうか。そうだとすると、この古いヤクの隊商路を自動車道路とすべく、地方自治体の並々ならぬ意欲が感じられる。一つのヤクの隊商が運ぶ荷物は6トントラック1台分程度である。ヤクの隊商が2日掛けて越えた峠道はトラックでは数時間の行程となる。ヤクの背で運ばれる荷物より重い何らかの商品を中国から輸入することを意図しているのだろうか。これらの強い要望がこの地域の住民から上がっていることが自動車道路の建設に至っているのであろう。ちなみに、グーグルアースで見るとチプタラから先中国側では、非常によく整備された自動車道路が川沿いに走っているのが確認される。おそらくこれらの自動車道は地域の中心地シガツェ、さらにはラサや中国各地へと連結されているものと推測される。

丸尾祐治さんプロフィールをご紹介

1944年生まれ。
北海道大学理学部出身。
学部学生時に北大・ヒマラヤ委員会組織のネパール・ヒマラヤ学術調査隊(1969)に参加し、卒業論文の現地調査としてスンコシ~タムール川流域の地質調査を実施。
1974~1977年ネパールのトリブバン大学に所属し、東部ネパールの地質調査を実施。以後ネパールを含めたヒマラヤ地域の地質調査を重ねる。
1989~2014年国際協力機構・国際協力専門員としてアフリカ諸国を中心とした開発途上国での地下水調査・開発事業に従事。
文化人類学者鹿野勝彦さんの知古を得て、日本山岳会ナンダ・デビ縦走隊(1976)、カンチェンジュンガ縦走隊(1984)に学術隊員として参加。
2022年10月日本山岳会120周年記念事業第2回GHT参加。

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