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山の日レポート

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通信員レポート

福井県大野市の歴史 幕末『奇跡の藩財政改革』

2025.08.02

全国山の日協議会

幕末の大野藩

 福井県大野市は、霊峰白山の支脈に囲まれた緑豊かな自然とおいしい水と食に恵まれ、歴史・文化・伝統が息づく城下町から成り立っています。
 大野は、古来から越前と美濃をつなぐ交通の要所で、現在の市街地である城下町や、亀山に建つ越前大野城は、今から440年以上も前に、織田信長の家臣、金森長近により築かれました。今でも、そのまち並みはかつての城下町としての風情を色濃く残し、「北陸の小京都」ともよばれています。また、秋から冬にかけて大野盆地が雲海に包まれ亀山だけがぽっかりと雲に浮かんで見える時、「天空の城 越前大野城」が現れます。

越前大野城

大野藩の誕生

 大野藩は、今から約400年前の寛永元年(1624)に、家康の孫にあたる松平直政が初代藩主となり成立しました。以降、家康の孫やひ孫が藩主となりましたが、天和2年(1682)に松平直明が播磨明石(現在の兵庫県明石市)に国替えとなり、代わりに下野足利(現在の栃木県足利市)などを治めていた土井利房(大老・土井利勝の4男)が藩主となり、以降、幕末までの約180年間、土井家が越前大野を治めました。
 幕末期になると大野藩は、全国の多くの藩と同様に、天保や天明の大飢饉や天災のほか、大野城の焼失などさまざまな理由から莫大な借金を抱え、赤字財政に苦しんでいました。
 このような状況を打破しようと藩政改革に乗り出したのが、大野藩土井家7代目の藩主の土井利忠です。利忠が藩主となって間もない天保4年(1830)の借金の総額は、約96,200両あったといわれています。(この頃の1両の価値は、物価や人件費から計算すると約6万円~30万円)仮に1両を10万円で計算すると約100億円になります。当時の大野藩の全収納高が約16,000両で、借金の利息は年9,000両もあったといわれており、収入の半分以上が利息に消えていく状態だったようです。

藩政改革は「更始ノ令」から

 藩主の利忠は、このような状況を打開するため、天保13年(1842)に「更始の令」を出しました。「更始」とは、旧いものを改め新しく始めるということで、更新とか革新の語と同じ意味で、町人や百姓に御用金を命じて財政を補うとともに、藩内のゆるんだ空気を引き締め、また、人材を育て、能力ある人を登用して藩の再建に努めるというものを出し、藩政改革に乗り出しました。
その内容の一部は次の通りです。
「君臣上下は一体である。この所を深く理解してほしい。財政難から政務が欠け、不正も生じ、正直者が埋もれているようでもある。政治向きはもちろん私自身の身の処し方に至るまで、気付いたことは何でも申し出てほしい。他見他聞を憚ると思えば封書で差し出してもいいし、直接言いたいことがあれば小姓頭まで申し出れば何時でも会って話を聞こう。お前たち家臣の「真忠の精力」に頼る以外土井家にも大野藩にも未来はないのだ、一同の者、くれぐれも頼んだぞ。」
 この場にいた藩士一同は、感動の涙を流したと伝わっています。
 この「更始の令」を期に、藩主自らが節約に努めるとともに、有能な人材の登用、綱紀の粛正、財政改革、藩士だけでなく一般の子弟も学ぶことのできる藩校の明倫館の創設などを行いました。藩の財政が回復の兆しが見えてくると、西洋の語学(主にオランダ語)を学ぶ洋学館を創設や、当時、猛威をふるった天然痘から領民を守るために種痘所の建設、修好通商条約により外国に開港した箱館・神戸・横浜などでの藩営商店の大野屋の開店、洋式帆船大野丸の竣工と地蝦夷・北蝦夷地(現在のサハリン)の開拓などを行いました。北陸の山あいの4万石の小さな藩が、時代の最先端の事業をさまざま実施し、大野藩の活躍は全国的にも注目を集めることとなりました。

大野城下町

越前大野城遠景 東側から

越前大野城石垣(マチュピチュ風)

大野藩の年表

 文政1(1818)  土井利忠、第7代の藩主になる
 天保13(1842) 「更始の令」土井利忠、藩政改革を開始、多くの人材を登用
 天保14(1843) 「学校創設の令」、藩校を創設、翌弘化1年(1844)、明倫館と称す
 安政元(1854)  藩内の小児に対して種痘を命じる
          海外の軍事書を翻訳し、「海上砲術全書」「海上砲具全図」を出版
安政2(1855)  大坂に大野屋を開店。大坂・適塾の高弟 伊藤慎蔵を蘭学教授に招く
 安政3(1856)  蝦夷地の探検を実施
          藩校洋学館を開設。蘭学修業のため、緒方洪庵の息子2人をはじめ、全国各地から大野藩洋学館に入学するものが増える
 安政4(1857)  大野屋の総本店として大坂屋を城下に開店
          済生館(病院)を一番町に開設。北蝦夷地の探検を実施
 安政5(1858)  洋式帆船「大野丸」が竣工
 安政6(1859)  大野丸、奥尻島で難破したアメリカ商船を救助
 万延1(1860)  幕府、北蝦夷地の一部(ウショロ)を大野藩の準領地として決定
 明治1(1868)  新政府の命により箱館戦争に出兵

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白山連峰のふもとにかつて存在した小さな藩・大野藩は、幕末の動乱のなかでも時代の最先端を進み、独自の道を歩みました。
山とともにある暮らしの中で育まれた大野藩の歴史について、大野親岳会の佐々木伸治様よりご寄稿いただきました。

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