山の日レポート
通信員レポート
ミスター富士山手記【運命の生涯登山】 1少年時代
2025.07.19
これまでに数多くの取材を受けた中で、「子供の頃、特別に何かやっていましたか?」と聞かれることがよくある。富士山登頂2000回超えと子供の頃の過ごし方に関係はあるのだろうか? 思い当たるのは、子供の頃からよく歩いたことだ。
私は終戦直前に生まれ、横浜市の京浜工業地帯のど真ん中で育った。家の前は日本鋼管、旭硝子等、戦後の日本の復興を支えた大企業が立ち並び、熔鉱炉から出たコークスを拾っては母親に小遣いをもらっていた。鶴見川ではハゼ釣りをし、コンロで焼いたり煮たりして食べ、造船所の進水式を見に行ったり、家の目の前の公園で相撲や野球、缶けり、かくれんぼ等、学校から帰れば日が暮れるまで外でよく遊ぶ足の速い子供だった。こんなことがあった。小学6年の修学旅行の一日前のこと。父親を戦争で亡くした母子家庭の友達が、修学旅行に行けないと暗い顔をしていたのだが、「おふくろが行かせてくれるって」と。お母さんがお金を工面して行けることになったのだ。高度成長が始まる前の昭和29年頃、日光への修学旅行費は500円かそんなもの。当時の物価は、牛乳が約15円、大卒の初任給が約8700円の時代だ。「じゃあ、みんなで中村信子先生の家へ届けよう」ということになった。当時は電話もないから直接持って行くしかない。こんな時に音頭をとるのは、ガキ大将の私の役目だった。同級生5~6人で蒲田の羽田空港近くに住む中村先生の家まで約10Km。国道1号を、1人は自転車を押しながら、あとは皆歩いてお金を届けに行った。先生はびっくりしたと思うが、「気を付けて帰るんだよ」とキャラメルをもらって、同じ道を引き返した。家に帰ったら20時を過ぎていた。歩いた距離のわりには疲れていなくて、仲間揃ってみんなで修学旅行に行けると思うだけで楽しかった。ただ、心配した親達が大騒ぎして、首謀者の私はこっぴどく叱られてしまったが、わんぱく坊主だった私は、片道10km以上でも平気で、日頃から一人で放浪し、日が暮れるまで目的地も決めずに歩き回っていたので、他にも怒られた記憶しか残っていない。
少年時代の實川欣伸氏
中学生になるとキャンプを楽しんだ。中学2年のわんぱく坊主5人で奥多摩の三頭山(標高1531m)に二泊三日で行ったのが最初のキャンプだった。今はトレイルランのコースで有名になっている。武蔵五日市から入った奥多摩三山で一番高い山で、記念すべき初キャンプだったが、ダムが放水してテントの周りまで水が来てしまい、怖くて「お母ちゃん」っと、泣き出すのもいて大変だった。それでも子供ながらに星空の瞬きが心に沁みて、来てよかったと思った。高校2年の時、男子6人女子9人で、夜行列車に乗って磐梯山に行った。その頃の東北はまだまだ田舎だった。トラックを止めてはヒッチハイク。荷台から立小便した懐かしい時代だ。一晩中寝ないでドンチャン騒ぎしながら、早朝、秋元湖という磐梯山の麓の湖にテントを張った。そのまま休むことなくその日のうちに小雨の中、磐梯山に登頂。登りは問題なかったが、疲労と悪天候で下り始めるとすぐに女子3人が歩けなくなった。私は、男子1人と女子5人を先に麓に下して、男子の残り5人で歩けない女子3人を担当して、元気のあった女子一人を付き添いとした。男子が女子をおぶって、疲れると交代をしながら進むを繰り返したが、女子は意識がなくなるくらい疲労困憊していて、おんぶしても首に掴まっていられない。手ぬぐいで手を縛って落ちないように固定しなければならないほどだった。日が暮れてきた。あと1kmというところまで下りてきたら、松明(たいまつ)を持って下から上がってくる一団が見える。自分たちは遭難したとは思っていなかったが、紛れもなく我々の捜索隊だった。
まるで映画をみているようなシーンだった。
磐梯山でのキャンプ
ちょうど明治大学の自然研究班が合宿中で、彼らが来てくれたのだ。私は「みなさんに迷惑をかけられないから、おぶっていきます」と生意気に言ったものの口だけで、もう力が入らず歩く事もできない。“あぁ、大丈夫”と気が抜けてしまったのだ。人間の気の力というのは凄いものだなと思った。結局、「すみません、お願いします」と頭を下げるしかできなかった。一人の子は、その後1週間も歩けなかった。明治大学の学生の方には「間違っていたら死んでいたぞ」と言われたが、自分たちで何とかなるという思いが強かった。全員無事で本当に良かった。
それからも懲りずにキャンプは続け、中でも上高地でのキャンプは思い出深く、徳沢園周辺梓川のほとりで1週間テントを張ったこともあった。男子3人女子2人の同級生5人でトランジスタラジオを置いて、星を眺めて何も考えない・・今では叶えることのできない最高の贅沢だった。
奥穂高への登山
1943年神奈川県生まれ、静岡県沼津市在住
「ミスター富士山」として知られる實川欣伸(じつかわ・よしのぶ)さんは、
1985年に富士山に初登頂して以来、2023年には80歳で通算2,230回(“フジサン”回)の登頂を達成。
今もなお記録の更新に挑み続けています。
このたび、山とともに歩んだその生涯について、山の日ホームページにご寄稿いただきました。
貴重な写真とともに、連載形式でご紹介してまいります。
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