アンバサダー
エッセイ
山への感謝状
2020.09.11
子供のころ、世界を冒険する植村直己さんに憧れた。雄大な山の懐に抱かれて悠久に広がる宇宙を仰ぎ見る。あたりには自分と、静かに広がる静寂の中の自然の吐息。あらゆる生命の営みの音楽。空を見れば無数の星が瞬き、私は今を生かされている奇跡を思い知らされる。そんな想像を何度となく子供のころから繰り返してきた。
初めて富士山に登らせてもらったとき、山登りにずーっと憧れてきたにも関わらず、あまりの苦しさに「山登りというのは、ただ登り続けることなんだ……」という現実に打ちのめされた。普通に歩いているだけなのに、こんなにも苦しい。気持ちよく気楽なまま、頂上に辿り着けるわけではない。想像よりも遥かに苦しいものだった。けれども長時間の苦行の末に、頂上から世界を見渡したときに湧き上がってきたその歓喜! 体中にまるで血のように駆け巡った幸福感と高揚感は、今までの人生ではまったく経験したことのないものだった。それから静かに、私は山の虜になった。
憧れは現実に一生の趣味となり、それから幾度となく、私はたくさんの山に出会うことになった。低山にも高山にもそれぞれの喜びがあり、苦しみがある。山を知ることで、私の人生は大きく変わった。命の危険すら感じる山でも、キラキラと輝く生命のありがたさを全身で知ることができる。生きていることは決して当たり前のことではなく、生かされていることへの純粋なる感謝をただただ、謙虚に思う。山はいつも静かな哲学を自然体で学ばせてくれるのだ。大自然の中で農業に勤しむ今の生活も、山に憧れ、自然の中に生きることの素晴らしさに気付いたからこそ。これからどんな山に出会い、いくつ生まれてくる太陽に出会えるのだろう。それがたとえいくつであれ、感謝という二文字しか私の心には浮かんでこない。
工藤タ貴
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