山の日レポート
通信員レポート
インドスキー界の育成に尽力した日本人、佐藤和雄
2025.02.13
インド人スキー選手が、初めて決勝まで進出したり、ビンディングが外れて途中棄権ながらも初参加の喜びからガッツポーズした2006年トリノオリンピック。長年彼らを指導し、現在も全面的な協力をしているのは八方尾根スキースクール関係者たちだが、そのきっかけを作ったのは元赤倉スキースクールの佐藤和雄だった。
ラルと「Seven years in Tibet」やアイガー北壁初登攀記録「白い蜘蛛:The White Spider」著者の ハインリッヒ・ハラー(Heinrich Haller):1985年、オーストリア国立スキー学校指導者課程にて
1986年、佐藤はオーストリア国立スキー学校で、インドのマナリから来ていたジャグディシュ・ラルと出会う。ラルは運動神経の良さとスキーの熱意を買われて、インド在任中にラルをトレッキングガイドに雇ったオーストリア商業事務官の紹介で入校。個人のスキーもなく特別にスキー一式を支給されたものの、スキーウエアも手袋も持たず、寒さに耐えながらスキー修業に打ち込む。本格的なスキーと初めての海外生活、そして資金節約のため昼食はほぼ水だけですませながら2シーズンを過ごし、インターコースに参加するまでに。
スキー学校修了後、ラルは佐藤に誘われ赤倉へ。言葉もわからず、赤倉までの行き方を乞うプラカードを首に下げ、単身成田空港から赤倉にたどり着いたラルは、外国人へのスキーコーチをする傍ら自らのトレーニングに励み、インストラクターたちとデモンストレーションをするまでになる。
心配する両親へ手紙を送る際に、単に「元気だ」と書くよりは・・と佐藤のアイディアで、ヒンディー語で「赤倉スキー学校の湯舟の中で、私は人生で一番幸せな時を過ごしています」
その後、ラルとの縁でマナリを頻繁に訪れることになる佐藤は、手製スキーで滑るマナリの子どもたちを見て、毎年たくさんのスキーを持参しては指導、私財を投じてラルの教え子たちを赤倉へ招聘するようになった。
後方左:佐藤、右:ラル、ラルの右:1993年時エベレスト女性最年少登頂者ディッキー・ドルマ
オリンピック選手育成を願った佐藤は、インドスキー界の責任者と連携して足がかりを作っていくが、個人の力では限界があり、八方尾根スキースクールと連携して指導することに。その後、インド人たちの活動の場は白馬へとシフト。2000年を最後に佐藤がマナリを訪れることはなくなる。
左:丸山庄司(元日本スキー連盟専務理事)、中:ラル、右:Khem Raj Thakur
白馬<山とスキーの総合資料館>の<福岡孝行記念室>入り口でオーストリア国立スキー学校時代の教官シュテファン・クルッケンバウアーの写真を見つけて敬意を表したラル
佐藤が開いたカレーショップ真奈里店内には佐藤やインドのスキー関連の写真が飾ってある 向かって左から丸山貞治(白馬スキースクールの元デモンストレーター)、ラル、寺沢
2002年4月13日、佐藤は癌のため逝去、享年55歳。佐藤の名前は次第に忘れられていく。
2012年夏、佐藤の遺族が遺骨の一部を保管していることを偶然知ったラルは翌年夏、実に25年振りに来日し、佐藤の遺骨を胸にマナリへ。
佐藤の墓参が叶ったラル
10月22日、5名の僧侶の読経に送られ、佐藤の遺骨は佐藤がスキーを指導していたロータン峠のベアス川源頭に撒かれ、その後マナリで彼を偲ぶ施食法要が開かれた。法要には1993年当時の女性最年少エベレスト登頂者ディッキー・ドルマやオリンピック選手のヒラ・ラルなど、いまだに佐藤を慕う多くの教え子たちの顔があった。
佐藤がスキー指導をしていたロータン峠で施された法要
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