山の日レポート
通信員レポート
日本一周!シーサイドウォーク 四国編(中)
2025.04.21
記:鮫川太一さん
2024年11月21日~12月14日第2回目の四秋の旅は今まで24年間の中で、一番厳しく辛い旅となりました。今回の内容は11月21日~11月30日までとし、12月1日~12月14日は次回の投稿となりますので、ご了承お願い致します。
私は2020年12月に前立腺ガン手術した後、4年間走ることはもちろん、歩くことさえしなかったものですから、高知県は特に起伏の激しい道で13㎏のザックを背負って歩くのは大変でした。2020年第1回の時は成田空港フライトを深夜から朝までロビーで仮眠するほど元気でした。2024年はネットで東京の一番安い¥3500で泊れる南千住のビジネスホテル。これは三畳一間でシャワーのみ。朝早く起き羽田空港に向かいました。
実は11月17日第1回目日立シーサイドフルマラソンに目標を定め、7月より1km~5kmのウォーキング→ランニングを始め、10月頃、やっとゆっくり17kmを走れるようになりました。でも本番では36km時点でギブアップ。この大会は茨城新聞によると、下関マラソンに次いで、全国2番目の起伏の厳しい大会だそうで、その時、左足小指を痛めたのが、後遺症として残ったと思います。大会の4日後に歩いたのがまずかった。
当初幕営して、本州・北海道・九州一周を自力で歩いたと同じ様に691kmを23日間で、1日30km程度、ゆっくり行くつもりで計画しましたが、今回の旅は515kmを24日1日22.4km歩くことになってしまい、半島巡り等約180kmのショートカットでちょっと心残りでした。
とはいえ、ゆっくり歩いたことは、色々な人と出会い、これからの生き方や趣味でも学ぶこともあり、出会う人に助けられ対話したことも多く、充実した楽しい思い出となりました。このことは今までなかったことです。
さらに今回は、土佐清水市中浜のジョン・万次郎の生家を訪ねたことで、考えさせられました。それは万次郎と水戸藩主徳川斉昭で二人とも幕末の激動期に波乱万丈の人生を送り、前者は幕府に開国を進言したけれども、後者は攘夷を唱え開国に反対し、維新の激動のうちに勢力を弱めてしまったことです。
2024年11月21日~12月14日 24日間515km
幕営なし 宿23日
高知空港~宇佐町~須崎市大間~土佐久礼~窪川~土佐佐賀駅電車にて中村駅~一日休養~土佐佐賀駅~中村駅~久百々~足摺岬~竜串
(~大月町弘見~宿毛~御荘~津島~宇和島駅~卯之町駅~保内町~三崎港~佐多岬経由三崎~亀ヶ池温泉~保内町~伊予長浜~伊予市稲荷~松山空港)
【2024/11/21】
羽田空港から高知空港へ
①【2024/11/21】9:30~19:30(33㎞)
高知空港でパッキングして9:30出立し、前浜付近で朝食を済ませ、瀬戸大橋から見る海岸線は景色も美しく、狭い歩道で車を気にしながら急ぎ、せっかくだから桂浜(14:10)の坂本龍馬像を見て、再び14号の海岸線をひたすら歩いた。宇佐町にある高知海洋高校手前のゲストハウスりり庵に着いたのは19:30で予定より2時間半も遅れて到着したので、オーナーからお𠮟りを受け謝る。客は日本語も話せる若い韓国人女性と50歳位の女性のみが泊まってた。
②【2024/11/22】8:30~17:00(12㎞)
ゲストハウスりり庵~誤って23号を進みロスタイム2時間
宇佐大橋~帷子崎~横浪黒潮ライン~23号セブンイレブン~クロネコ宅急便~須崎市大間のビジネスホテル鳥越
36番札所青龍寺付近に着いたのは11:00であった。急な上り坂をゆっくり歩き、帷子崎手前の屋台で焼きそばを食べて、店主の女性と客に左足小指の腫れを見せたら、ありがたいことに、須崎のセブンイレブンまで約16kmを送迎してくれた。断られたが油代として気持ち千円渡したら、やっと受け取ってくれた。感謝あるのみ。
セブンでは送る段ボールは置いて無いと云うので、クロネコ宅急便まで歩いて、テント一式6kgを自宅に送った。そこから1時間歩いてビジネスホテル鳥越に泊まりほっとした。
後で遍路人に聞いたところ、この道はアップダウンが多く、テントで一泊二日の難コースだと知って納得したのである。
③【2024/11/23】7:14~17:20(16㎞)
ビジネスホテル鳥越~焼坂トンネル~土佐久礼駅付近ゲストハウス桂
ザックは8㎏と軽くなったが、左足小指が痛くしばし休んでは歩いた。夕食は居酒屋でかつおタタキをたっぷり美味しく食べた。
④【2024/11/24】7:30~19:00(22㎞)
ゲストハウス桂~七子峠~道の駅あぐり窪川~窪川駅~37番札所宿坊岩本寺
早朝、道先で朝食できる店を教えてもらった。おにぎり2つ、野菜サラダにコーヒーまで付いて、さらにもう一つのおにぎりまで頂き、千円札で支払おうと手渡したら、お遍路さんからはもらわないと云うのだ。それでは儲からないだろうと云うと、儲ける気はないと応える。これが御接待なのだと感心した。感謝感謝!
七子峠を過ぎると、人気ラーメン店で40分待たされ、味もとても美味しい。待った甲斐があった。
夜暗くなっても、宿坊までの標識があり、それを頼りに楽に到着した。この宿坊はホテル並みの清潔さで食事も美味しく頂いた。また大浴場では11時間半歩いた疲れを癒してもらい感謝するのみ。
⑤【2024/11/25】8:18~19:40(22㎞)
岩本寺~片坂第一トンネル~荷稲~土佐佐賀駅~電車で移動~中村駅前中村第一ホテル
高知県の山間部で、私のスマホ(楽天)は繋がりにくいことしばしばである。国道56号を南下し、道中のレストランでも、店からかけても宿に接続されず、荷稲でお接待している所の年配の方がドコモの携帯で、いくつか掛けて頂いたら、有井川の民宿にやっとOKしてもらった。そこは素泊まりなので、電車に乗る前にコンビニで夕食・朝食分を買入しなければならず、急いで歩いたが、土佐佐賀駅に6時ごろ着いてしまった。民宿に1時間遅れることを告げたら、”1時間も遅れて、それは出来んとですよ”と断られてしまった。テントも家に送ったし、途方にくれてしまった。そこで電車に乗って町場の中村駅前のホテルに決め、連絡したら泊まれることになり、ほっとした。
⑥【2024/11/26】休養
中村に停滞、民宿土佐に連泊。
朝食をしてから、評判のいい整形外科を教えてもらい、連泊するつもりで宿代を尋ねると、どういう訳か二日目は高くなるので、隣の民宿に泊まることにし、1日休養日とした。
荷物を民宿に預け、正木整形外科まで歩き診察を受けた。結構混んでいて待たされたが、医師は良く診てくれて、左足小指が赤く膨れ上がり、化膿していて、治すのは歩かないことが一番、松山までは無理と云われてしまった。革靴で左小指が圧迫されているため治りにくい、靴をスニーカーに替えると良いのだが・・・。と云われて消毒してもらい、抗生物質は一週間分、痛み止め、ぬり薬、ガーゼ、テーピングは2週間分を頂く。
いつまでも痛みがとれなければ、家に帰るしかないと肩を落としてしまった。またこれまで旅をしていて病院に入ったことは一度もなかったのでショック。
左足を気にして歩き、車から年配のおばあさんを家に降ろしていたので、道を尋ねたらそれは福祉タクシーであった。歩く姿を見て宿まで無料で届けると云うのでそれに甘えた。車中で足摺岬まで行きたいと云ったら、空海が若かりし修行の身の頃、悪路のため、足を引き摺りながらやっと岬に辿り着いたと話してくれた。今は良い道になったけれども・・・。途中で降ろして頂きお礼をし、途中立ち寄ったのが、DVDレンタルショップである。24~25歳の頃、感動のあまりその日に二回見た映画、中村が舞台の『祭りの準備』のDVDがこの地域にはあると思い聞いてみたが所蔵してなくガッカリ。
⑦【2024/11/27】7:20~17:46(25.3km)
民宿土佐~中村駅~下って土佐佐賀駅~有井川駅~土佐入野駅~中村駅~民宿土佐 晴れ
土佐佐賀駅8:00到着、有井川駅に11:30到着、歩いて民宿が見えた。ここが一時間ほど早ければ泊まれた宿だと思ったが、中村に行って、整形外科で診てもらったほうが正解であり、完歩出来たと家に帰ってからは思っている。
海の王迎(おおむかえ)を過ぎた所で2~3日前に会ってちょっと話した、自転車運転の坂西太郎さんと再会し、なにかの縁を感じお互いにメール、電話、住所の交換をし、二人の写真を撮った。寒中見舞いの写真はこれを使わせて頂いた。彼は足摺岬付近で、自転車を運転して転倒し、手首を捻挫したため、旅を諦め高知空港から札幌の自宅に帰ると言っていた。
札幌の坂西太郎さんと
⑧【2024/11/28】7:18~16:50(23km)
民宿土佐~民宿久百々 晴れ
中村駅民宿土佐~四万十大橋~伊豆田トンネル~鍵掛~久百々の民宿久百々 晴れ
県道20号堤防沿いに歩き、四万十大橋を渡り、国道321号に足を進め、伊豆田トンネル(1,620m)を過ぎ、Luceレストランでゆっくりとエビフライとうどんを食べる。鍵掛には15:40を通り過ぎて久百々の民宿くももに到着。
民宿のおかみさんは元気で大きな声、ほがらかな、人なつっこい方だ。娘さんは私が中村で診療を受けた佐々木整形外科の看護師をしていることも話してくれた。これも縁を感じた。遍路は他に2人いた。風呂は玄関の真正面にあった。
⑨【2024/11/29】7:18~16:35~17:00(25km)
民宿くもも~大岐海岸(砂浜散歩)~以布利バス停下港山第1トンネル手前で27号を歩かず県道348号線椿の道を通行~足摺民宿ことぶき~足摺岬~民宿ことぶき 晴れ
同宿で私より3歳年上の遍路の方が名所、景を限なく、時間をかけて味わいながら、砂浜を散策していて面白そうなので、2時間ほど同行した。私は以布利で別れて、国道348号椿の道を急いだが、何度か左足の小指をかばい休んでいたら、足摺岬から27号海岸線を来た60代の元気な男性と会いしばし話した。やっと足摺の民宿ことぶきにザックを置き、空身で38番札所金剛福寺を過ぎて足摺岬の灯台をみて民宿ことぶきに戻った。
⑩【2024/11/30】8:18~17:37(27km)
民宿ことぶき~中浜~食堂あしずり~道の駅めじかの里土佐清水~ホテルおれんじ 晴れ
竜宮神社を過ぎ、中浜にはジョン・万次郎の生家に立ち寄り、波乱に満ちた生涯を知り、色々と考えさせられた。
(ジョン・万次郎について)
貧しい漁師に生まれ、14歳の時に仲間5人で足摺岬へ漁に向かいシケに遭い漂流。海上760km南、太平洋の島々に漂着し、そこで半年ほど無人島でサバイバル生活。この島にやってきたアメリカ捕鯨船に助けられ、アメリカ船の船長は何事にも熱心に取り組む万次郎を高く評価し、ともにアメリカに行くことに。アメリカでは船長の養子になり学校で英語・数学・航海術・造船技術を学んだ。
後に日本へ帰国し、幕末の重鎮の通訳を務めるなど活躍した。
ジョン・万次郎のようにこれ以上ない船長と巡り会えた幸せな人もいれば、偶然か必然かそうでない人もいる。
そんな時、相田みつを氏の言葉が浮かんでくる。
”そのときの出逢いが
人生を根底から変えることがある
よき出会いを”
としみじみ思うのである。
私はどうだったか?・・・・
《次回へ続きます》
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