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山の日レポート

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自然がライフワーク

『円空の冒険』諸国山岳追跡記(8)【奈良県編】     清水 克宏

2024.10.01

全国山の日協議会

円空の大峯修行を追う

 円空は、寛文12(1672)年から延宝3(1675)年頃(41歳から44歳頃)にかけて、奈良県の大峯山中で修行を行っています。大峯は、修験道の祖とされる役行者が蔵王権現を感得したと伝わる我が国の山岳修験における最も重要な霊地であり、修行の場でした。大峯での厳冬期の山籠も含めた長期・過酷な修行を経て、円空の信仰も造像も、大きく変化し、深化しています。円空の修行はどのようなものだったのか、積雪期も含む3度の踏査、および大峯奥駈道縦走をはじめ大峰山脈に幾度も入山している経験も踏まえ、迫ります。

円空が大峯修行をめざした背景

 円空が、若き日々伊吹山(1,337m)に身を置き山岳修行に励んでいたことは、蝦夷地に残した観音菩薩坐像(現在有珠善光寺蔵)の背銘に「江州伊吹山平等岩僧内」と刻んでいることからうかがわれます。伊吹山は、全山が石灰岩で、多くの岩峰や断崖があり、円空の背銘にある平等岩は、そのシンボルともいうべき巨岩です。円空は山中でフィジカルな面では相当過酷な修行を積み、それが蝦夷地の山岳など、地図すらない地帯における冒険的な行動を可能にする基礎になったと考えられます。
 ただし、伊吹山は、役行者や、白山を開山した泰澄が入山した伝承のある古い山岳修験の山なのですが、中心となる太平寺、弥高寺などの山岳寺院が戦国武将の拠点に使われたこともあり、江戸期には山中の寺坊はほとんど壊滅し、円空と関わりが深い太平寺集落には、中之坊、円蔵坊といったわずかの坊が辛うじて残るばかりでした。したがって、当時の伊吹山は、修験の教義や祈祷法などを身につける環境は失われていたと考えられ、円空が蝦夷への旅で残した像の背銘の梵字も不完全なものです。平等岩というと、大峯山上にも裏行場を象徴する同名の大岩があり、円空は、いずれは大峯で、本格的な修行を積みたいと願っていたのではないでしょうか。
 意外に感じられるかもしれませんが、円空は法隆寺と関わりが深く、寛文11(1671)年7月15日には、同寺の巡尭春塘から『法相中宗血脈』を受けています。その円空自筆の写しには、「子多年求望之追而麁相之血脈書写与之」という文言があることから、長年血脈を望んでいたこと、すなわちそれ以前にも法隆寺を訪れていたこと、それは蝦夷に渡る前と考えられています(小島梯次氏著『円空・人』)。法隆寺は三論宗・法相宗・真言宗・律宗の四宗を兼学していましたが、江戸初期までは真言宗系の当山派の修験寺院の集団である「当山正大先達寺」のひとつという側面を持ち、多くの修験者を抱えていました(宮家準氏著『修験道組織の研究』)。
 血脈とは、仏の教えや戒律、宗派ごとの教説や実践行が、師から弟子へと連綿と継承されてきたことを示す系譜で、師が伝授した証として、弟子に与える書面のことです。円空が法隆寺で血脈を望んだのは、蝦夷に向かうにあたり、修験僧としてのお墨付きが欲しかったためと推測されますが、結局この時は、かないませんでした。円空には、斑鳩を歌った和歌が4首あり、3首までは同地を寿(ことほ)ぐものですが、1首だけ「いかるかの 音に聞たに ほいなきに 我家ならぬ 飯二うへつゝ」 と、趣を異にする歌があり、これは血脈を得られなかった失意を歌っているのではないでしょうか。
 そして円空は、寛文6(1666)年に蝦夷(北海道)に渡り、礼文華の小幌の窟(豊浦町)で、前記の背銘を持つ像をはじめ、同地の山岳名を記した5体の観音薩坐像を造顕しています。蝦夷では、当時内浦岳(北海道駒ケ岳)に引き続き有珠山が、突如有史以来の大噴火を起こしていましたから、おそらくこれ以上山々が怒らないことを祈念して造顕したのだと推測されます。しかし、円空が蝦夷から帰還した直後の寛文7(1667)年、5体のうちの1体に「たろまゑ乃たけ」と記したにもかかわらず、樽前山が有史以来の大噴火を起こします。円空は、修験僧としての自分の非力さを痛感させられたことでしょう。
 修験僧としての円空が、造像にあたって何より重んじたのは、天の怒りを鎮めたり、病を平癒したりする祈祷において十分機能することだったはずで、4年にまたがる大峯修行に入ったのは、修験の本拠地での本格的な修行を通じて、より強い法力を身につけることにあったのではないでしょうか。
 蝦夷や尾張領内での造像活動などの実績も積んだ円空は、前述のとおり寛文11年、法隆寺の巡尭春塘から念願の『法相中宗血脈』を受けます。血脈を承けることが大峯修行に加わる許可証のような役割も果たしたのでしょう。法隆寺には、この折のものと考えられる端正な大日如来坐像が伝わります。

円空にとっての「大峯」

 「大峯」という言葉は、地理的、宗教的、歴史的に、様々な使われ方をしています。円空の大峯修行を追跡するうえで、まず円空にとって「大峯」は、どのような場だったのか、当時の文献も参考にしながら概観してみましょう。
 地理的にみた「大峰山脈」は、東西は熊野川上流の十津川(源流部は天ノ川)とその支流の北山川に挟まれた山並みを差し、北は中央構造線に沿う紀ノ川上流の吉野川に接して、その北端は吉野山とされます。南は玉置山から七越峰を下って熊野川に接し、対岸が熊野本宮となります。この山脈を吉野から熊野までたどる修行の道がユネスコの世界遺産にもなっている「大峯奥駈道」で、広義では大峰山脈全体が「大峯」ということになります。 
 しかし、国土地理院の地形図に「大峰山」という山はありません。その頂きで役行者が蔵王権現を感得したとされる山上ヶ岳(1,719m)が、金峯山、大峯山とも呼ばれ、山頂に大峯山寺がある信仰の中心で、そこに「西の覗き」に代表される表行場や、「平等岩」に代表される裏行場と呼ばれる山岳修行の場も開かれています。最も狭義にとらえる場合、山上ヶ岳が「大峯」ということになります。
 さらに、明治以前の神仏習合の山岳信仰においては、吉野を「山下」、山上ヶ岳を「山上」と呼び、両方合わせて金峯山寺と称し、吉野の蔵王堂を「山下の蔵王堂」、山上ヶ岳の本堂を「山上の蔵王堂」と呼んでいました。円空は大峯の歌を4首詠み、それとは別に吉野の歌も詠んでいますから、円空にとっての大峯は、「山上」すなわち山上ヶ岳周辺をさすと思われます。
 また、江戸中期の『金峯山山上山下幷小篠之絵図』(金峯山寺蔵)をみると、当時は小篠までを山上と一体の信仰の場と見ていたことがうかがわれます。小篠は、山上ヶ岳から南東に歩いて約1時間、山上では稀少な豊富な水が得られる場所で、「小篠の宿」とも呼ばれます。神仏が宿るとされた大峯奥駈道沿いの「宿」(拝所・行所)の中でも、醍醐寺三宝院を開いた聖宝を祖とする真言宗系の当山派が特に尊重し、聖宝堂があり、ここで山伏の補任を行いました。聖護院を本地とする天台宗系の本山派もこの地を重視していました。円空は、小篠の歌も1首残しています。
 また、円空は大峯の歌の1首に「大峯や 天ノヲ川に 年をへて 又くる春に 花を見(る)らん」と詠んでいます。「天ノヲ川」とは、山上ヶ岳周辺を源頭とする天ノ川のことで、この川が下るにつれ十津川、熊野川と名を変えます。その河畔に鎮座する天川弁財天社(現在の公称は大峯本宮天河大辨財天社)は、天川郷十四カ村(現在の天川村)の氏神であるとともに、聖護院門跡および三宝院門跡の峰入の拠点でもありました。同社に円空作の大黒天像が、天川郷十四カ村のひとつ栃尾の観音堂にも観音菩薩像、大弁財天像、金剛童子像、そして護法神像が、さらに天川村各所に個人蔵の小像が10体ほど伝わるなど、天川郷は、円空の大峯修行と深くかかわっていたことがしのばれます。
 大峯山中のもう一つの有名な行所として、笙(しょう)の窟(いわや)があります。山上ヶ岳の南、大普賢岳(1,780m)の東に派生する稜線南面に連なる岩峰にある岩窟群中最大のもので、標高約1,450mの地点にあり、季節を問わず籠居修行が行われていましたが、特に「冬籠」、「千日籠」など過酷な修行で知られます。
 円空は笙の窟の歌を、2首残しています。そのほか、笙の窟に近接する鷲の窟についても、歌を1首残しており、ここでも窟修行をしたことが分かります。
 このように長い歴史を持ち広大な信仰世界を形成していた大峯が、明治初年の神仏分離と、それに続く明治5(1872)年の修験宗の廃止令に伴い、神社化する命令が出され、大峯山寺は廃寺に追い込まれます。ようやく、明治19(1886)年になって「天台宗修験派」として修験道の再興が図られ、その際、山下の蔵王堂は金峯山寺、山上の蔵王堂は大峯山寺と、別々の寺院となったのが、現在の姿です。明治以降ほとんどの霊山は女人禁制が解かれた中で、「山上」は、今も禁制を保っています。

画像1:金峯山寺蔵『金峯山山上山下并小篠等絵図』山上・小篠部分              画像提供:奈良女子大学術情報センター(附属図書館)

円空の大峯修行

 円空の和歌と、残された像などを手がかりにすると、円空の大峯での修行は、➀山上の蔵王堂(現大峯山寺)周辺、➁小篠、③笙の窟および鷲の窟、そして④山麓の天川郷 で行ったと考えられます。熊野まで大峯奥駈道をたどった可能性もあるのでしょうが、その手がかりは発見されていません。
 残された記録や、厳冬期も含めた現地踏査の結果を踏まえると、円空の大峯修行は表1のとおり、計3回と考えられます。円空がどのように修行に取り組んだのか、順にみていきましょう。

➀山上蔵王堂周辺での修行
 円空が大峯に入山した江戸前期には、4月8日に山上蔵王堂の戸開がされ、9月9日に戸閉がされ、この間が山上の活動期間となり、期間外は入峰が認められていませんでした。円空は、毎日勤められる三時供養法、護摩供、初後長長講、法華懺法などに加わりながら、多くの天台宗系の寺僧、真言宗系の満堂と共に修行を行う中で、法華経や大般若経など、経典に関する理解を深めていったと考えられます。円空は、そのような修行の中で「護法」(仏の教えを守ること。仏法を守護すること。)を自らの使命として強く意識するようになったと考えられ、延宝2(1674)年、大峯修行の合間に志摩国の片田および立神で大般若経の補修にあたり、それ以降も各地の大般若経の補修に携わっています。そして、この時期以降「護法神」の像を盛んに作るようになり、その最初の作例が栃尾観音堂に残ります(画像2)。

画像2:(左)護法神像、(右)同背面 天川村栃尾観音堂蔵

 そして、円空は大峰山の本堂に阿弥陀如来坐像を残しています(画像3-2)。時期を特定できる銘はないものの、円空は像を造顕し終わった時に和歌を詠むことが多く、「守れ只 大峯山の 神なれや 心の内の 印計(ばか)りに」という歌からすると、修行の締めくくりに、感謝を込めこの像を蔵王堂に納めた折に詠んだのではないでしょうか。

画像3-1:大峯山寺本堂(山上蔵王堂)、3-2:本堂安置の円空作阿弥陀如来坐像

➁小篠での修行
 円空は、「昨日今日 小篠(の)山二 降(る)雪ハ。 年の終(り)の 神の形(かげ)かも」と和歌に詠んでおり、戸閉の後も、年越しで小篠において修行したことがうかがえます。ただし、そのような修行は『年中行事次第』などに記載されておらず、非公認のものであったと考えられます。
 小篠は、標高約1,630mと、標高が笙の窟より200mほど高いだけでなく、季節風の関係で積雪も格段に多く、里から遠いため支援も得にくい条件にありました。おそらくこれは、円空が自らに課した、例外的で過酷な修行だったのではないでしょうか。
 旧暦の「年の終」は、2月の厳冬期にあたるので、この時期に現地で宿泊調査したところ、地球温暖化の中で極端に雪の少ない年でしたが、気温はマイナス16度、往年ならさらに寒く、1mを超す積雪があったことでしょう。ただし、小篠の水場となる沢は、湧水のため冬でも凍結することはなく、水を得ることは可能であり、豪雪で知られる伊吹山に身を置いてきた円空であれば、蕎麦粉など一定の食料を確保しておくことで、過酷ながら冬越しも辛うじて可能であったと考えられます。

③笙の窟および鷲の窟での修行
 笙の窟は、大普賢岳(1,780m)東の大岩壁に穿たれた、標高約1,450mの地点に位置する大峯山中最大の窟で、山上や小篠と違い、冬籠りができる地理条件に位置することから、別名「南室門」と呼ばれ、季節を問わず籠居する修行が行われていました。そして「千日籠」といわれる過酷な修行が、天慶4(941)年の道兼(のち日蔵)の修行以来行われていた記録が残ります。
 大峯修験最盛期の鎌倉時代には、「笙窟冬籠」が年中行事の中に組み込まれていました。窟の本尊として、寛喜4(1232)年に故征夷大将軍源実朝の御願により、護持僧弁覚が勧進した銅造の不動明王像が伝わり、また窟内に建物があったことも発掘調査で判明しています。笙の窟での籠修行は、許可された特別な者だけができるもので、支援基地となる、北山川側の西原村天ケ瀬集落(現在は廃村)から食料や燃料など様々な支援を受けて成り立つものでした(岩本逸男氏著『ふるさと天ケ瀬』)。しかし、江戸時代には、笙窟冬籠は、年中行事としては行われておらず、例えば安政5(1858)年頃に武蔵国の木食行者が千日山籠を行った満願の碑が天ケ瀬に残されているように、特別な修行として行われていたようです。
 円空は、笙の窟を2首、その近くにある鷲の窟を1首和歌に詠み、笙の窟周辺で修行を行ったことは間違いありません。ただし、厳冬期の現地調査では、窟内の湧水は凍結し、積雪期の断崖上では、氷雪を融かす燃料の確保もままなりません。しかし、天川郷十四カ村側には円空像が多く残されるにもかかわらず、天ケ瀬側には残されていないなど、支援の形跡は認められません。円空の笙の窟を詠んだ歌も、「千和屋振る 笙(の)窟に ミそきして 深山の神も よろこひにけり」などと、みそぎ(禊)が詠まれていることからも、円空の窟修行は、「笙窟冬籠」ではなかったと考えられます。
 しかし、後年、滝尾神社(日光市)の稲荷大明神の背銘に、「金峯笙窟圓空作之」と記していることからも、円空にとって格別な修行であったことがうかがわれます。

④天川郷での修行
 天川村は、標高350m前後の吉野よりはるかに高い標高600m前後の高地にある山深い村です。天川郷十四カ村のひとつ、栃尾の観音堂に祀られた観音菩薩、大弁財天、金剛童子の三尊像は、もともとは観音堂の奥の、堂の谷の窟で造られ、谷の中ほどの堂に祀られてきたものが、水害に伴い大正2(1913)年に現在位置に移されたもので、この時、庄屋筋にあたり、円空の世話をしたと伝わる家の祠にあった前述の護法神を合祀したと、庄屋筋の末裔にあたる堂守の方から伺いました。観音菩薩の像内からは、小坐像と、「寛文□年」と記された紙片に包まれた小石(舎利石)が確認されています。
 天川村には、ほかにも各集落に個人蔵の小像が10体ほど現存し、円空が天川の人びとと深く関わり、サポートを受けていたことが裏付けられます。「大峯や 天ノヲ川に 年をへて 又くる春に 花を見(る)らん」という歌からすると、おそらく大峯修行の初年である寛文12年秋、大峯山上で戸閉まで修行を行い、その後、天川郷の堂の谷の窟で独り越年修行を行い、翌春の戸開に再び山上での修行に入ったのではないでしょうか。それは、小篠での年越しの予行演習にもなったことでしょう。

画像4:厳冬期2月の笙の窟。湧水は凍結している

大峯修行がもたらしたもの

 大和郡山市の松尾寺には、円空作の役行者像が伝わります。同寺は、法隆寺から「松尾道」で直接つながる松尾山(315m)中腹にある、江戸時代には当山十二正大先達寺を務めてきた山寺で、法隆寺別院とも呼ばれ、法隆寺の修験僧も、ここで修行を行っていました。
 役行者像の背には「法隆寺文殊院秀恵」「延寶三卯九月於大峯圓空造之」「[ ]山寺法印二之宿」と読める墨書があり、おそらく9月9日の戸閉にあたり造顕され、法隆寺文殊院の僧秀恵を介して、二之宿(二宿ともいい、先達衆の長老が大宿で、次席の二宿が諸事を掌った)に修行を務めあげた報告と謝意を伝えるために納められた像と考えられ、その晴れやかな笑顔が印象的です。
 以上のように、円空の大峯修行を追いかけていくと、修験僧としての教義や祈祷法を身に着ける修行も無論行ったのでしょうが、堂の谷や小篠での越年修行など、独り自己と向き合う、禅僧のそれに近い修行にも重きを置いていたことが浮かび上がります。そのような修行を経て、自らの命を護法に捧げる決意をしたことが、延宝2(1674)年の志摩国から始まる各所での大般若経補修の営みや、この時期以降多く造られる護法神などからうかがわれます。そして、延宝4年以降、荒子観音の諸像をはじめ、円空の爆発的な造像活動がはじまります。

<注> 画像は、所有者の許可のもとに使用させていただいており、二次使用は固く禁じます。

(次回は、11月1日三重県編を掲載予定です)

画像5:松尾寺蔵 役行者像および背銘(前田邦臣氏撮影)

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