山の日レポート
自然がライフワーク
何もないを生かす・・・故郷で『エコ登山』を展開する その3
2024.05.01
地元では数年前まで、登山者の少ないことを理由に、各季節における遭難対策や指導、登山相談や発信はお座なりであった。時々起きる遭難騒ぎには、地元「遠山山の会」(以下、山の会)の有志が下伊那地区山岳遭難防止対策協会遠山郷分室の活動として、必要な救助に出動して来た。遠山郷観光協会は、登山口までのアプローチ道と駐車場、二次交通のタクシー対応および登山届と、問い合わせ対応と通り一片の情報発信のみ。ビジターハウスはなく、登山者の集う所はどこにもなかった。登山道整備も山の会にお任せで1~2度の整備と消極的、ビジネスにならない事には深入りしないというスタイルが何十年も続いていたということだ。
観光協会も素晴らしい自然が観光素材になるという発想はなく、登山を見直そうという意識も見えなかった。林業という山仕事で生計を立てていたとは到底思えない土地柄である。“南ア南部の自然と山”をまったく利用していないのである。学校登山で戦後数十年、現在50~70歳代が中学生だった時代に聖や兎、大沢岳と登ったと聞くが、年代によっては「頂上を見たこともない(人々の住まう谷間の国道筋からは3000mの頂上稜線は全く見えない)……、登山者も見たこともない」「ロープウェイも山小屋もないこんな山奥に観光客は来るわけがない‼クマが出るだけだ」と取り付く島もない状況である。
山小屋があれば集客のため、関係者の努力次第で登山客を呼び込むことはできるが、明治20年代後半のウエストンから大正・昭和にかけての冠松次郎をはじめとする著名な登山家が度々訪れても、北アルプスとは真逆の“自力登山”がことさら強調され、観光とは相いれない世界が出来上がっていた。当時は山案内人も少なく、昭和に入り戦中戦後、訪れた登山者の大半は首都圏の大学山岳部である。こうして登山スキルの高い経験者向き山域というイメージが定着した。いずれにしても都会からは大変な距離と時間がかかるエリアで、大衆向き登山として認知されるのは、時代も下り'60年代に入って静岡国体の登山競技の山として披露されてから後である。元々、北アのようなサービスが提供できる小屋はなく、避難小屋レベルで、数も知れていた。それでも景気上向きの戦後の20年間は、ある程度の人口があり、南信濃や上の地域にはいくつかの拠点集落が、宿も、飲食店も、数十の雑貨、食品等小売りが軒を連ね、拠点の和田には床屋や遊技場まで必要十分な状況であった。陸の孤島のどん詰まり経済は生きていたわけである。
遠山郷は戦前、戦争資材に用いる計画で米英開戦時に着想、ヒノキやスギの伐採搬出用に遠山森林鉄道が施工され、終戦直前の1944年秋に大沢渡までが完成した。皮肉にも戦後の復興に役立ち、瞬く間に林業の一大産地となって、杣人や林業関係者が全国から流入、その隆盛は村人口が3倍近く8000人にも膨れ上がるという賑わいで、当時の森林鉄道員や林業関係者は「仕事と食うことにまったく困らなかった」と回想している。'55年(昭30)に遠山川本谷の西沢渡まで林鉄が延ばされ、景気は約30年間近く続く。
生活や仕事の道、そして登山の道としても重宝されたが、林業隆盛の時代にも登山を観光として活用する感覚からは程遠かったようだ。'68年(昭43)チェーンソー等の機械化で伐採が進むも安価な外材に押され、国産材の需要が傾き始めた。営林署が林鉄から撤退し'73年には最後の民間業者も撤退。軌道跡は村道として軽四輪の走る道となった。20年ほど維持されたが、'70年代中後期、山腹道に軽四輪の走る比較的安定した舗装道が開かれると、水害に弱い川沿いの軌道敷は忘れられ、廃道に近い状況が続く。'50年代から60年代の南アルプス遠山郷側のアプローチはすべて林鉄軌道からであった。
『歩くことだけで暮らしを立ててきた最後の日本人』といわれ、耕して天に至る急傾斜に暮らす下栗集落は、簡易水道と電気が通ったのが‘56年(昭31)、センターラインのない車道ができたのが‘70年代後半から80年代中期にかけてである。願いが叶うと、失うものの大きさにも住民は気付く。厳しい顔である古老がつぶやいた。「うれしいは、ちょっとだけ、道は何のために?引っ越しのためだった」と悲しげ、道が整備されることで人口減少は急激に進む。遠山郷南信濃の人口は減る一方で、2000年~2015年と近年2回の国勢調査でも驚く、なんとその差は6割減である。
現在1100人のための店舗は、食堂2、小さなスーパー1,食料品1,米屋1、酒屋1、山肉や1、雑貨屋と薬屋は休眠状況、比較的大きな宿1,宿兼食堂1、宿兼銭湯1、民宿1、ゲストハウス1、ガソリンスタンド1,饅頭屋1、お酒を飲むところは全くない。それもいくつかの建物は行政の指定管理である。個人資産ではないので、営業日も行政指導、普通のお店とは言えない。地元の人でさえ車で1時間以上かけて、飯田へ出て買い物をする。
遠山郷にはコンビニもないため、登山客は一切合切すべてを用意して登山に向かうしかなく、経験者向きと言われても仕方のないところだ。食事からしてままならない。受け入れ態勢は全く整っていないのである。
ほとんどの登山者は、自家用車で登山口へ向かうしかなく、駐車場で車中泊。買い物もできず、無料のトイレと、無料の駐車場に・・・「えっ無料!ほんとですか?」と驚く。お金の落ちる所が全くなく、落としていくのは排せつ物とゴミだけである。これでは遠山郷の持ち出しで悲しい結末の繰り返し!ビジネススキームかどこにあるのか??
私どもの活動する南ア南部聖岳から光岳まで、過去山小屋代わりを担ったのが営林署の作業所や宿舎であった。しかし、林野庁の退去と共に消え、今は信州側登山道には山小屋は全くなく、登山道に入る西沢渡の手前、便ヶ島森林公園に個人所有の聖光小屋のみが営業している。聖岳と光岳の登山口と言えるところにあり、新しいオーナーが一昨年再開を果たした。稜線に存在するのは静岡県管轄の指定管理であるフルサービスの光岳小屋と宿泊のみの聖平小屋の二軒、それと個人所有の茶臼小屋だけである。北アや中ア、八ヶ岳には遠く及ばない環境である。
公共交通は日に3本のバスが飯田へと走り、地元には乗り合いタクシーもあるが、助成金頼みの運営はまことに役に立たない。本格的なライドシェアーの展開を切望するところである。またタクシーは高料金で、台数もなくドライバーも少ない。ちょっとした観光にも使いづらく一般的ではない。なにしろすべてにおいてキャパシティがなく、特に高齢者は、山に入る条件が交通・山麓宿・山小屋の三つをクリアーしないと入山すらできないとなる。現在6000人と増加した登山客には、現況では遠山郷からの恩恵は薄い。本当に何もないのである。
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