山の日レポート
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『円空の冒険』諸国山岳追跡記 (3)【秋田県編】
2024.05.01
山岳修験僧円空は、蝦夷からの帰路、津軽半島から弘前城下を経て、蝦夷松前藩主や弘前藩主が参勤交代の折に使った羽州街道をたどり、碇ヶ関を経て今の秋田県にあたる出羽国久保田藩領に入ります。しかし、出羽国に入ってからの足取りについては、手掛かりが少なく、謎となっていました。
今回は秋田県における円空の足取りを、登山者としての経験とカンを活かし追いかけます。
円空の北海道や青森県での足取りは、藩の記録や菅江真澄の旅行記などの文献、残された円空像の背銘や様式分析などを手掛かりに、おおよそつかむことができました。しかし、秋田県については、文献がほとんど見当たりません。しかも、円空像が12体確認されているものの、ほとんど背銘がないばかりか、大館市宗福寺の十一面観音立像を円空作と鑑定された円空彫刻の一人者山田匠琳氏から、「秋田県の円空像は、場所を大きく移動していたり、場合によっちゃ顔なんかも変えられたりしているから、注意した方がいいよ」とのアドバイスももらいました。お言葉に従い、像の由来などを精査していったのが、表1の「秋田県の円空像一覧」です。欄を青くしたものは、明治初年の廃仏毀釈などで、本来納められた場所が不明となった像です。とりわけ追跡を困難にしているのは、久保田藩主佐竹家の居城であった久保田城下(現在の秋田市)など、県中央部に手がかりが少なく、円空像という「点:ポイント」を、足取りという「線:ルート」にしていく決め手がないことです。
このように追跡困難な時こそ、登山者に不可欠な、地図を見ながらルートファインディングしていく基本技術をフル活用していくしかありません。
ルートファインディングには、まず、当時の交通事情などの分かる地図が不可欠です。幸い、円空の時代にほど近い正保4(1647)年作成の『出羽一国御絵図』(幕府が諸藩に作成させた国絵図の写しで、本図は現存せず。)を、デジタルアーカイブで確認できるので、これを参考にすることにしました(図1-1)。この絵図を見ると、内陸には大館、久保田城下、大曲、横手などを通る羽州街道が、日本海沿岸には久保田城下から亀田・本荘両藩の城下町を経て酒田に向かう羽州浜街道がありました。そして、米代川、雄物川という秋田県の二大河川が太く描かれ、日本海側には、北から米代川河口の能代湊、男鹿半島の船川湊、久保田城下に近い雄物川河口の土崎湊、亀田藩と本荘藩が利用していた本荘湊があり、これら水運が、年貢米や、秋田杉、阿仁や院内などの鉱石などを運搬する上で重要な役割を占めていたことがよく分かり、街道ばかりに目を向けていてはいけないことに気付かされます。
図1-2は、現在の地形図に、円空像のうち所在がほぼ当時と大きく変わっていないと考えられる像(表1の欄が橙色のもの)を赤字でプロットした「秋田県の円空像分布図」です。この二つの地図を手掛かりに、現地に通い、円空の足取りを追いかけていきました。
円空は羽州街道の碇ヶ関を越えて、久保田藩領に入り、まず大館の宗福寺に十一面観音立像を残しています。曹洞宗の宗福寺は、久保田藩主佐竹家の重臣で大館城代を務めていた佐竹家(のちの佐竹西家)の菩提寺です。同寺は火災などで古文書類を失っており、像が造顕された当初から納められていたのかは不祥ですが、円空が青森県に残した十一面観音像につながる様式の像で、丁寧に仕上げられ、垂れ目気味の円満な笑顔が印象的です(画像3-1)。
次に残るのは、これも羽州街道沿いの、糠沢川が米代川に合流するポイントに位置する糠沢集落の宝珠庵(廃寺)に伝わった阿弥陀如来坐像です。米代川は船運が盛んで河口の能代湊が積み出し港になっていたので、円空はここから先船を使ったのか、羽州街道沿いに円空像は残されていません。
そして米代川河口を見下ろす日和山にある真言宗の湯殿山龍泉寺に、十一面観音立像があります。船運の盛んだった江戸時代、同寺は出羽三山のひとつ、湯殿山の能代出張所として、海上安全、大漁豊作の祈祷を行っていました。しかし、明治初年の廃仏毀釈により、湯殿山が神社に転じたため独立し、上新城(秋田市)にあった高倉山観音院龍泉寺と合併・再興されています。円空の十一面観音立像は、この廃寺となった上新城の龍泉寺から移されたものですから、後ほど触れます。
それから、円空は男鹿半島の赤神神社五社堂で十一面観音立像を造顕しています。『出羽一国御絵図』には、能代湊から男鹿船川湊への航路は描かれておらず、円空は八郎潟と日本海の間の砂州の街道をたどっていったのでしょう。男鹿半島には、北側に真山(しんざん:567m)に奥の院がある真山神社(廃仏毀釈以前は赤神山光飯寺)が、南側に男鹿半島の最高峰本山(715m)に奥の院がある赤神神社(同赤神山日積寺永禅院)があり、どちらも円仁創建の伝承がある藩主佐竹家が崇敬した領内十二社のひとつで(注)、なまはげ伝説の舞台でもあります。往時は、光飯寺と日積寺永禅院を直結する、真山と本山を経由する修験者の道があり、円空は最短のこの道をたどって五社堂に至ったのでしょう。五社堂は文字どおり5つの社から構成され、神仏分離前は、向かって右から普賢菩薩、十一面観音菩薩、釈迦如来と阿弥陀如来、千手観音菩薩、地蔵菩薩を祀っていました。円空の十一面観音立像は、今もそこにおわし、神さびた微笑をたたえています。
男鹿半島にはほかにも、船川湊に近い増川八幡神社などに円空像があり、円空は、船川湊から久保田藩の中核の港である土崎湊へ船で渡ったと考えられます。
注:佐竹家が崇敬してきた神社を「領内十二社」として明確化したのは、1700年代初頭とされます。
上新城の龍泉寺は、寺伝に行基や円仁とのゆかりを伝える古い寺で、往年は高倉山観音院宰相寺と号していたところ、久保田藩初代藩主佐竹義宜から龍泉寺の寺号を賜っています。廃寺となった現地を訪れてみると、山あいながら久保田藩の中核港である土崎湊までは直線距離で6㎞ほどと意外に近く、やはり海上安全、大漁豊作を祈祷する寺だったのだと実感されました。円空がここで造った十一面観音立像は、像容こそ宗福寺や五社堂の像と共通していますが、目の当たりにすると甲虫の殻のようにギザギザにした衣や謎をたたえた微笑みに、強い呪術性を感じます(画像3-2)。
龍泉寺の信仰の基となる湯殿山は、即身仏といわれる僧侶のミイラに関わる信仰で知られます。円空については、長良川河畔で即身入定したとの伝承があります。これを疑問視する説もありますが、少なくとも円空が、当地において即身仏の思想に触れたのは間違いがありません。
土崎を後にすると、円空の明確な足跡は新庄藩境に近い院内の愛宕神社まで確認されていません。その中間の、かつて本荘城下であった由利本荘市大泉寺に、円空の蝦夷への旅で造られた蓮華を持つ観音菩薩坐像の集大成ともいうべき美しい像があります(画像1)。その由来を伺ったところ、先代が昭和23年の火災で本堂が焼失後、古像を買い求めたうちのひとつで、詳細は不明とのことでした。
大泉寺訪問後、美術評論家丸山尚一氏著の『新・円空風土記』に、同寺の像が由利本荘市市街から山側に入った黒森山山麓の代内(のしない)集落の修験寺である太子堂に祀られていたことを丸山氏が伝え聞き、これを確かめるため、現地を訪れた記述があるのを知りました。しかし、同書には、現地でその伝聞が正しいのか聞き取りをした記述もなく、内容が曖昧なので、現地に行ってみました。
幸い、太子堂の脇にある、かつての別当筋にあたるお宅でお話を伺え、廃仏毀釈以前、当地は「赤田五峰」と称する、東光山(594m)を中心に薬師山、黒森山、笹森山、仏洞山の5山が修験者の拠点になっていたこと、さらには当地から円空像が流出したこと、そして円空が当地を訪れたことはほぼ間違いないことを確認できました。堂自体は新しくなっていますが太子堂に入れていただき、本尊の聖徳太子像や多くの神仏像を拝し、このような中に円空の観音像もあったのかと感慨ひとしおでした。
おそらく円空は、土崎から日本海沿いの羽州浜街道で、当時久保田藩の支藩のような位置付けだった亀田藩に入り、同藩の参勤交代の道である川大内街道をたどり、途中街道にほど近い太子堂に立ち寄り、今は大泉寺に伝わる観音坐像を造顕したあと、羽州街道に合流し再び久保田藩領に入り、銀山で栄えた院内にある領内十二社のひとつである愛宕神社に蝦夷往復の旅の集大成ともいうべき最大の十一面観音像を残し、秋田の地を後にしたのでしょう。大泉寺の観音像と、愛宕神社の十一面観音像は、いずれも穏やかで晴れやかな笑顔をたたえています。
青森、秋田両県の円空の足取りを現地踏査して分かったことは、蝦夷への長い道のりは、単なる往復という行程にとどまるものではなく、その信仰や造像活動を進展させる、過酷ながらも実り豊かな体験に満ちていたということでした。
(次回は6月1日宮城県編を掲載予定です)
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