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山の日レポート

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自然がライフワーク

『円空の冒険』諸国山岳追跡記―はじめに

2024.02.01

全国山の日協議会

清水 克宏

 美濃国に生まれた江戸前期の山岳修行僧円空(寛永3(1633)年~元禄8(1695)年)は、荒々しい彫り跡の「円空仏」(実際には神像や神仏習合像も多いので、以下は「円空像」といいます)で知られます。生涯に12万体の像を造顕したともいわれ、現在北海道から西日本にかけて5,300体あまりが確認されています。槍ヶ岳開山で知られる江戸後期の浄土宗の僧播隆(天明6(1786)年~天保11(1840)年)は、円空より150年ほど後の生まれになりますが、山岳修行の過程で先達として円空の存在を意識し、同じ岩屋で修行しました。播隆開基の岐阜県揖斐川町の一心寺には、行脚の笈に納めていた円空作の観音菩薩像が伝わります。また、御嶽山を庶民に開いた行者覚明(享保3(1718)年~天明6(1786)年)の念持仏も円空の阿弥陀如来像です。

(画像:『播隆院一心寺と播隆上人』展(揖斐川町歴史民俗資料館)より。播隆の所持品中央が遺愛の円空作観音像)

円空仏ブーム

 江戸時代において、円空は広く知られた存在で、現在の百科辞典にあたる『和漢三才図絵』(寺島良安編)や、べストセラーの伝記集『近世畸人伝』(伴蒿蹊著)、将軍吉宗の命令で飛騨国の代官長谷川忠崇がまとめた歴史書『飛州志』にも登場します。しかし、彼の信仰が、当時一般的だった神仏習合に根差していたため、明治初年の神仏分離令に端を発する廃仏毀釈や、同5年の修験禁止令を経て、その存在はいったん歴史の奥底に埋もれてしまいます。
 そんな円空の存在が、昭和30年代に始まるいわゆる「円空仏ブーム」によって一躍広く知られるようになります。ただし、ブームが巻き起こる過程に民芸運動で知られる柳宗悦が関わっていたこともあり、民芸品のように位置付けられていた側面があります。さらに、庶民に寄り添い造像した円空を、漂泊無学の遊行僧のようにとらえる研究者もあり、そんなイメージを踏まえたテレビドラマが放映されたこともあって、かなりいびつな円空像が定着してしまいました。
 その後、各地で円空像が次々発見され背銘(背中の銘文)の研究が進み、さらに1,600首を超える和歌が発見・公刊されたこともあり、円空研究は飛躍的に進みました。そして2006年には、日本文化の本質を追求した哲学者梅原猛が、著書『歓喜する円空』で、「円空は私にとってもはや一人の芸術家に過ぎない存在ではない。むしろ彼は私に神仏習合思想の深い秘密を教える哲学者なのである。」と、新たな円空像を提示しています。

諸国を行脚した山岳修行僧

 しかし、円空の本質はやはり、寛文3(1663)年に噴火して間もない北海道有珠山に登り「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空」と有珠善光寺蔵の観音像背銘に記しているように、諸国を行脚した山岳修行僧なのですから、そのフィジカルな活動を無視することはできません。ところが、これまでの研究者は、書斎派の方が多かったのか、山岳修行などの冒険的行動には、ほとんど光が当たってきませんでした。

(図:円空が行脚したと考えられる都道府県)

山域を開拓した「冒険者」

 私は、飛騨山脈や白山山地、伊吹山地など450山あまりある岐阜県の山の過半数を5年間かけて踏査し、2021年に『森の国水の国 岐阜百秀山』(ナカニシヤ出版)を刊行しました。その踏査においては、まるで先回りをするかのように、実に多くの山々で円空の足跡に出会いました。さらに、後に「北アルプス」と呼ばれる飛騨・信濃国境の山々の地理的把握の進展について、多くの絵図(現在の地図)などを確認していく過程で、円空がこの山域の先鋭的な開拓者であることを知るに至りました。

『森の国水の国 岐阜百秀山』(ナカニシヤ出版)を刊行

 例えば、穂高岳については、従来元禄9(1696)年に幕府が作成を命じた元禄国絵図の下図と思われる『師岡本筑摩郡安曇郡図』(松本市博物館蔵)に、「保高嶽」とあるものが最古の文献とされていました(2017年 松本市・松本市教育委員会『上高地保存管理計画 改訂版』)。しかし、円空が飛騨側の双六川最奥の金木戸集落に残した十一面観音像(現高山市上宝町桂峯寺蔵)の背銘には、「頂上六仏 元禄三年 乗鞍嶽 保多迦嶽 □御嶽(於御嶽と宛てて笠ヶ岳とされる) 伊応嶽(焼岳) 錫杖嶽 四五六嶽(双六岳)」と記されており、穂高岳の文献上の初出は、この元禄3(1690)年の円空の背銘ということになり、彼がこの山域を開拓した「冒険者」と言えるでしょう。

『円空の冒険』追跡 5か年計画

 円空の残した像や和歌、そして諸文献によると、その足取りは当時蝦夷と呼ばれた北海道をはじめ、青森・秋田・宮城県など東北地方、茨城・栃木・埼玉・群馬県など関東地方、長野・静岡・愛知・岐阜・富山など中部地方、三重・滋賀・奈良など関西地方にまで及んでいます。しかし、円空がこれら諸国の山岳に、どのように向かい合ったかは、ほとんど未解明のままです。
 現在私は、2022年から5か年計画で、「『円空の冒険』追跡」と銘うち、何とかその全体像を明らかにしていきたいと、円空の足取りに沿いながら実地踏査を進めています。これは、日本山岳史の空白を埋める取り組みにもなるかと思っています。これからシリーズで、踏査の結果をレポートしていきます。お付き合いのほど、よろしくお願いします。

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