閉じる

ホーム

  •   
  •   

閉じる

山の日レポート

山の日レポート

山の日インタビュー

連載⑤ 東奔西走 ダルマ・ラマ 富山からネパールと日本、世界をつなぐ

2023.11.01

全国山の日協議会

第5回 ネパールの震災 緊急支援から復興支援へ そして冨山ネパール文化協会の設立

鹿野  「つまり、ネパールの震災への支援は、緊急支援から復興支援へと趣旨が変わるわけですね」
ダルマ 「はい。『アジア子供の夢』では2016年度、といっても実際には2017年の初めに、もう1回、現地に行きました。復興状況の視察が主な目的でした」
鹿野  「同じころ、僕は文部科学省の調査費を受けて、震災の被害や復興状況の調査でネパールに行くことになっていたんだけど、たまたま『アジア子供の夢』の活動家のなかに金沢市在住の太田勝久さんがいて、僕はその太田さんから話を聞いて、ちょっと失礼な言い方だけど、これは被災地支援の新しい形かもしれない、面白そうだって思って、カトマンズで合流して、リサンクに同行させてもらった。ダルマさんとは、そのときが初対面でしたね」

リサンク村で日本の支援チームを迎える村人(2017年鹿野撮影)

ダルマ 「そうです。えーっ、この方は僕の生まれる前からネパールに来てるんだって、びっくりしました。で、あのとき先生はどんなふうに思いました?」
鹿野  「あ、立場が逆転しちゃったな。そうね。それまでの外国の大規模災害への支援っていうのは、個人であっても、支援する側の政府とか国際機関とか、公的な窓口を通じて、被災国の政府に届けるのが、主なルートでしたよね。たしかに人口が密集している大都市圏の住民への支援とか、道路や鉄道をはじめとする大規模なインフラの復旧とかは、それでいいわけだけど、もともとインフラが十分整備されていない山間地の村へ、支援を届けよう、それも本当に必要な支援の内容を把握して、きめ細かく、ってことになると、それではむつかしい。
ネパールもそうだけど、一般に発展途上国では、もともと地方の行政機関には、人的にも財政的にも十分な力がないから、災害時にそれぞれの地方に、的確に必要な支援を届けるような体制を期待するのは無理があると思う。たしか震災の1年後のネパール政府の公式発表でも、世界中から集まった支援金のうち、そのときまでに執行されたのはせいぜい10%くらいだったはずです。
だから川渕さんやダルマさんのやり方が新鮮に思えた。川渕さんは「あたしたちのやり方は、ゲリラ的支援なのよ」って言ってた。もちろん、そういう個別のチャンネルを通じて支援を受けられるところと、それがないところでは、結果としてある種の格差が生じるという問題がないわけではないけれど、とにかくやれる条件のあるところでまずやるっていうのが、新鮮だったんです」

支援物資を配る川渕さん(2015年撮影 ダルマさん提供)

ダルマ 「ありがとうございます。たしかにあのとき、なんで2つの村だけに支援物資をとどけるんだっていうことも、多少は言われましたが、しかたないですよね」
鹿野  「あと、現地で印象的だったのは、リサンク村の人たちが、1年前の約束どおり、村人がボランティア活動によって道路、橋や学校の補修をして、こうなりましたって、結果をしっかり見せてくれたことかな。そうなると支援した人たちも、ああ、ここを支援したのは無駄じゃなかった、よかったって思いますよね。
そのあたりは、昔からシェルパの人たちは、とても上手です。僕はリサンク村のあと、シェルパの村もいくつか見に行ったんだけど、どこでも、これだけ支援してもらった結果、こういうふうになりましたっていう発信をすごく丁寧にしていた」
ダルマ 「それは私もそう思ってました。他のネパールの人だって、支援に対して感謝してないわけじゃない。でも、それを伝えるのが、タマンの人たちもそうですけど、これまであまり上手じゃなかった。だから私も、シェルパの人たちのまねをするっていうか、感謝を目に見える形にすることは、かなり意識してました。そこまでやらなくってもいいじゃないか、みたいなことも言われましたけど」

リサンク村の学校で文房具を配る(2015年撮影 ダルマさん提供)

鹿野  「で、ダルマさんは、この地震への支援を富山の人たちから受けたことをきっかけにして、ネパール冨山文化交流協会を立ち上げたんですね」
ダルマ 「はい、そうです。また地震が起きたらって考えたわけじゃないけれど、せっかくこの震災をきっかけにして、富山の方たちがネパールのことを知って、気にかけるようになってもらったんだから、それを震災の支援だけで終わらせたらもったいない。これからももっと日常的に交流を深めて、お互いが理解できるようになるといいなって。
それと、これからはネパールが支援されるだけじゃなくて、ネパールから富山にもなにか貢献できることがあるといい。富山には、それまでもヒマラヤ登山のつながりからか、自治体間の姉妹提携もあったし、ネパール人の技能実習生としての受け入れを通じて県内に住むネパール人もどんどん増えてたけど、まとまった形の交流組織はなかった。だからそういう組織を作りたいって思いました。
もちろん国レベルでの日本とネパールの交流組織があるのは知ってたけど、県というか、地域レベルなら、もっときめ細かい、人と人の顔が見えるような交流ができるんじゃないかって」
鹿野  「で、初代の会長も引き受けたわけですね」
ダルマ 「べつに偉いわけじゃないけど、住んでた年数は長いほうだし、知り合いもずいぶん増えてたし、誰か世話役が必要ですし・・・」
鹿野  「その文化交流の話はまたあとでまとめてうかがうことにして、ここらでそろそろ農業の話に移りましょうか」

(次回は11月16日掲載)

RELATED

関連記事など