山の日レポート
通信員レポート
冬剱雪黒部2 その2
2023.05.12
1960年3月16日~4月7日、京大パーティは縦走隊6名、サポート隊委3名、鹿島槍ヶ岳から牛首尾根を下り、黒部川十字峡を横断して黒部別山北尾根から真砂尾根、別山尾根を経由して剱岳に立った。初めての十字峡横断であった。1962年3月11日~26日、昭和山岳会の小林信三、岩田克夫ペアは京大と同じく十字峡に至り、ガンドウ尾根、池の平山より北方稜線を経由して剱岳に立った。
北方稜線と十字峡横断、どちらも最初に登ったのは京大だけれど、その内容は昭和山岳会の記録の方が圧倒している。比べるべくもないが、大きな違いは登山方法とパーティ編成だ。昔の大学山岳部は新人が多く大所帯で、極地法をよく使ったから重装備になった。ヒマラヤ遠征のための訓練という側面もあった。勤労者である社会人山岳会は長い休みは取れないし、パートナーのやりくりもあっただろう。だから短期間の岩壁登攀が多かった。少人数で軽量、機動性を重視するのは当然の帰結だった。
言い換えれば、集団対個の対比と言えるかもしれない。登山は元来個である、これは真理である。日本の黎明期の登山は文人墨客の旅の延長にあったから、当然集団行動はなじまない。集団登山が盛んになるのは、学生登山の勃興と彼らが目指すヒマラヤ遠征が立ち現れたからだ。個人ではいけないから集団を組む。これは西欧の登山から学んだセオリーだ。西欧アルピニズムは今も昔も個の世界であるが、エヴェレスト遠征あたりから隊の規模が大きくなり、集団のタクティクスが幅を利かし始めた。その影響である。
1950年代後半から、大学山岳部は知識と組織力でヒマラヤを目指した。社会人山岳会は組織力と金がないからアルプスを目指した。できることは個の技量を高めること、それがそのまま日本の山の登り方に反映した。ほとんど岩壁の新ルートは社会人山岳会のクライマーたちが拓いた。登山界のイニシアティブが学生から社会人に移ったのがちょうどその頃だった。京大山岳部と昭和山岳会の対比は、その時代を如実に表している。そしてその後の我々は、昭和山岳会の岩田克夫らの路線を引き継ぐことになった。
その後、数は少ないが実力のある大学山岳部が北方稜線をトレースした。1962年に関西学院大学が完走。1971年には日本大学が宇奈月から42日間をかけて、西穂高まで北アルプス全山を縦走した。縦走隊4名、サポート隊が北方稜線、立山、槍ヶ岳に総勢17名が入った。今までの記録はすべて3月から4月にかけてのものだったが、1973年正月に、信州大学が冬期の北方稜線を初めてトレースした。縦走したのは2名、サポート隊が宇奈月尾根、毛勝山北西尾根、赤谷尾根から総勢27名が入った。1976年3月に金沢大学が、1978年3月に中央大学が、1979年3月に日本山岳会学生部がトレースした。これらすべて大学山岳部の記録である。
ユニークな登山をしたのは、1979年3月に26日間で日本山岳会学生部の寺本正史、竹中昇、駒宮博男だ。彼らは、鹿島槍ヶ岳~赤沢岳西尾根~黒部横断~黒部別山第一尾根~八ッ峰Ⅲ稜を経由して、北方稜線を宇奈月まで縦走したことだ。彼らはみな私と同世代の人物である。彼らはヒマラヤでも活躍した猛者である。嘱望された竹中は、植村直己率いる冬期エヴェレスト隊で亡くなった。
私は1971年の春山合宿に北方稜線を主張したことがあったが、部の上層部から一蹴された。初めて足を踏み入れたのは、1976年厳冬2月の単独行だった。富山県の勧告を無視して、50キロの荷物を背負い入山した。トリプル歩荷で腰上のラッセル、3日目でようやく宇奈月尾根の避難小屋に着くありさまで、僧ヶ岳も越えられなかった。剱岳どころか毛勝山の姿も見えなかった。情けなかった。せっかく仕事の休みも取ったのに、失意で大阪に帰った。
1980年3月7日~19日にかけて、私は高塚泰司(近畿大学山岳会)と二人で宇奈月尾根から剱岳、大日岳へ縦走した。雪崩で危ういこともあったが、天候に恵まれて短期間で登ることができた。ほとんどザイルを使ったところがなかった。彼は信頼できるパートナーであり、その後ナンガ・パルバート遠征を3度ともにした。
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