山の日レポート
山の日インタビュー
「縦横無尽 雨宮節 沖縄と山を語る」#7
2023.04.21
【山の日インタビュー】 この人に聞く「山」の魅力
雨宮節さん(登山家)は2年前までの12年間沖縄で暮らしていました。今年8月11日に沖縄で開催される山の日全国大会を盛り上げるために、雨宮さんに沖縄の山々そして自然の魅力を語ってもらいました。
鹿野 沖縄へはどんな理由で行ったんですか?
雨宮 自分としてはまあ、それまで山のことばっかりだったから、しばらくは山と離れたいってのはあった。で、ほんとはハワイへ行こうと思ったんだよ。うちの奥さんはハワイが好きで、JALの客室乗務員をしてたんだけど、退職したらハワイに住みたいって言ってた。
永住までは行かなくても、3年か4年くらいね。でも、短期ならともかく3年とかになると、ヴィザのことなんかが厄介で、あきらめたんだ。
鹿野 それで沖縄に?
雨宮 そう。でもまるで土地勘がないから、たまたま沖縄に赴任してた知人に、どこかいいとこがあったら紹介してくれって頼んだら、探してくれたのが本島の北のほうの宜野座(ぎのざ)村の城原(しろはら)区っていうところにある、元ペンションだったカナダ材のログハウス。あんまり観光客なんかが行くとこじゃないから、経営がうまくいかなくて手放してしばらくたったやつ。それに手を入れて住み始めた。
鹿野 じゃ、そこに住んでるのも、地元で生まれ育った方たちですか?
雨宮 まあほとんどね。城原の人口は130人くらいなんだけど、よそから来たのは僕らのほかは数人だったかな。最初はなんか変わった隠居老人が来たか、みたいな感じですよ。でも、沖縄の人って、あんまり排他的じゃないのね。すぐにいろいろ声をかけてくれる。
うちの場合、女房は以前からフラ(ダンス)をやってて、たまたま近くにフラのサークルがあったから通い始めたら、僕はあのフラやってる奥さんの旦那か、みたいな。東京なんかだったら、ちかくに引っ越してきたって、お互い関心もないでしょう。なにしてる人かもわからない。
雨宮 で、城原区の住民のうち50人くらいが高齢者で、僕もしばらくしたら老人会に入って、ゲートボールにも誘われるようになった。東京にいたときは、地域の人とそんなつきあいをするなんて、考えもしなかったよね。ああ、これがコミュニティーってやつかって思った。僕にとっては、そういう生活って、けっこう新鮮で面白かった。で、そのうち老人会の会長をやるようになっちゃった。地元出身でもないのにね。老人会の会員って、区の人口の40%近くだから、区長さんの次に、えらいってわけじゃないけど、大事な役職なんだね。
鹿野 それで、山の世界とは全く離れていた。
雨宮 そう。2年くらいは完全に山からは離れてた。なんかすごく平和な気分だった。
鹿野 そのあいだに沖縄の自然のありかたにもだんだん関心が深まっていったわけですか?
雨宮 そうなんです。僕も山に行ってるころは、日本でもヒマラヤでも、山の自然にはもちろんある程度の関心はあったけど、でもそこに住んでるわけじゃない。普段は東京に住んでて、山はときどき出かけてゆくところでしかないわけ。でも宜野座では、自然は住んでるとこの、すぐ目の前にある。最近世界自然遺産になったヤンバルだって、すぐそこなわけよ。これも、自分にとってはすごく新鮮だった。目から鱗が落ちるっていうのかな。それで、あちこち歩きまわるようになった。まあ暇ならいくらでもあったしね。
雨宮 そのうち、自然だけじゃなくて、文化っていうのかな。それにも興味がわいてきた。沖縄にはあっちこっちに城(グスク)ってのがある。那覇の首里城みたいなのは別格だけど、小さな石垣だけ残ってるようなのも各地にひっそり残ってて、歩いてるとそんなのにぶつかったりする。ここにはどんな人たちがいて、どんな暮らしをしてたんだろうなんて、ちゃんと調べるわけじゃないけど、考えるだけでも楽しい。
聞き取り、構成:鹿野勝彦(全国山の日協議会 評議員)
(2022年11月21日 雨宮さんの自宅にて聞き取り)
(あまみや たかし)
1936(昭和11)年生まれ。
1960年代日本での積雪期岩壁登山、そして1970年代にヒマラヤの山々でバリエーションルートからの登攀を競った「鉄の時代」とともに生きてきた登山界のレジェンドの一人です。
2年前までの12年間沖縄に住み、沖縄県山岳・スポーツクライミング連盟の会長を務めていました。
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