山の日レポート
山の日インタビュー
「縦横無尽 雨宮節 沖縄と山を語る」#6
2023.04.01
【山の日インタビュー】 この人に聞く「山」の魅力
雨宮節さん(登山家)は2年前までの12年間沖縄で暮らしていました。今年8月11日に沖縄で開催される山の日全国大会を盛り上げるために、雨宮さんに沖縄の山々そして自然の魅力を語ってもらいました。
鹿野 ダウラギリが終わって、山とのかかわり方が変わったっていうことですが、具体的にはどんなふうにですか?
雨宮 まず、それまでみたいに、ヒマラヤのむつかしいルートの初登攀を狙うような山登りは、自分ではもうできないだろうって思った。やっぱり隊長として行った2回のダウラギリで6人死んでるわけよ。その責任は大きいよね。誰から責められたわけでなくても。そのとき僕は42歳で、個人的にはまだやれるって思ってたけど、若い優秀なクライマーもどんどん育ってきたしね。
鹿野 そのベースとなるイエティ同人も立ち上げたし。独立して、自分のお店を持ったのもそのころですね。
雨宮 そう、「新宿山幸」は僕がずっと店長をやるって約束だったんだけど、経営者のレベルでいろいろあって、結局僕はのれん分けっていうのかな。「代々木山幸」っていう店をたちあげて独立したんです。代々木では、狭い意味での登山用品だけでなく、アウトドアスポーツ関係の幅広い品ぞろえを心掛けた。新宿にいたころから、いろんなお客さんと付き合って、日本人の山や自然についての意識が変わってきたことを、強く感じてたからね。
雨宮 たとえばスキーなら、ゲレンデスキー用品だけじゃなく、ヨーロッパアルプスで盛んになってた、何日もかけていくスキーツアー、いわゆるオートルートで使うような品とかね。自分も本気で山スキーの練習をして、1979年からは日本人グループのオートルートのツアーのガイドをするようになった。あれは30年以上やったかな。現地のガイドにも同行してもらうんだけど、彼らのレベルの高さに、いろいろ学ぶところが多かった。
ボルダリングなんかも、欧米でさかんになり始めてたから、それを紹介するつもりもあって、その用具を並べたりね。あんなの山と関係ないだろう、邪道だって批判もされたけど、気にしなかった。
鹿野 でも、ヒマラヤに多少の未練はあった。
雨宮 やっぱりエヴェレストには登ってみたかった。子どものころからあこがれてたからね。イエティ同人の名前を使ったけど、個人として頂上に立ってみたかった。1990年代になると、もうネパール側の一般ルートではコマーシャルベースの登り方も始まってたから、僕は中国側から行きたいって思って、2000年にはそのトレーニングのつもりでチョーオユーに行き、7500メートルくらいまで登ったし、2003年にはチョモランマ(エヴェレスト)でノースコルの下の6700メートルくらいまで行ったんだけど、やっぱり50歳を超えるとむつかしいよね。それに実はそのころには、低血糖症を抱えるようになって、インシュリン注射をうちながら登ってたんだ。
鹿野 で、そろそろ山を離れようかって思って沖縄に移住した。
雨宮 それまでずっと山のことばかり考えてたから、もういいかって。ちょうど女房も退職する時期になったし。で、それまで住んでた荻窪の家もたたんで、持ってた山の本が3000冊くらいあったのも全部あるとこに寄贈して、沖縄に行ったんです。
聞き取り、構成:鹿野勝彦(全国山の日協議会 評議員)
(2022年11月21日 雨宮さんの自宅にて聞き取り)
(あまみや たかし)
1936(昭和11)年生まれ。
1960年代日本での積雪期岩壁登山、そして1970年代にヒマラヤの山々でバリエーションルートからの登攀を競った「鉄の時代」とともに生きてきた登山界のレジェンドの一人です。
2年前までの12年間沖縄に住み、沖縄県山岳・スポーツクライミング連盟の会長を務めていました。
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