山の日レポート
山の日インタビュー
「縦横無尽 雨宮節 沖縄と山を語る」#4
2023.03.01
【山の日インタビュー】 この人に聞く「山」の魅力 雨宮節さん(登山家)
雨宮さんは2年前までの12年間沖縄で暮らしていました。今年8月11日に沖縄で開催される山の日全国大会を盛り上げるために、雨宮さんに沖縄の山々そして自然の魅力を語ってもらいます。
鹿野 まず確認ですが、1964年に海外旅行が自由化されます。それまでは登山目的で海外に行くにはいろいろややこしい手続きが必要だった。
雨宮 そう。それにヒマラヤに行くには、ネパールなりパキスタンなりの登山許可を取らなきゃならないし、莫大なお金もかかるから、日本山岳会は別格として、京大とか慶応とか、伝統もバックもある大学山岳部以外は現実にはまだなかなかむつかしかった。
鹿野 そのころは登山の実力はもう大学山岳部より、一般の山岳会の人たちのほうがかなり上だったけど、とにかくヒマラヤ遠征は日本を出たら半分終わったみたいなもんだと言われてた時代です。だから一般の山岳会の人たちの多くは、まずヨーロッパのアルプスを目指した。雨宮さんもそうでしたか。
雨宮 うん。はじめはね。みんなはいわゆる3大北壁、マッターホルン、アイガー、グランドジョラスのどれかに、まず日本人として初めて登るのを狙った。でも僕はモンブランのプレンヴァ・フェースが目標だった。あれがアルプス最高の壁じゃないかって思ったんだよね。で、パートナーといろいろ計画を練ったんだけど、結局実現しなかった。
鹿野 ところが1970年ごろには、だいぶ状況が変わってきた。
雨宮 日本も豊かになったんだね。僕らでもヒマラヤへ行けそうな時代になったわけだ。でもひとつの山岳会で隊を出すのはまだちょっと無理だっていうことで、都岳連(東京都山岳連盟)隊ということになった。といっても実際は都岳連という組織でチームを編成したわけじゃなくて、単独のクラブで出かけるのは無理だから、いろんなクラブの、意欲と実力があって、時間とお金もそれなりに出せる奴が集まって、都岳連の看板をかかげるようにした。そのほうが登山許可を取るにも、お金や物を集めるにもつごうがいいじゃない。隊長が高橋照さんで、僕もそのメンバーになった。
で、目標がマナスルの西壁。ヒマラヤの大きな山で真っ向から岩壁を目指すのは日本だけじゃなく、世界的にもまだ珍しかった。
鹿野 1971年ですね。雨宮さんはそのとき35歳。ヒマラヤデビューとしては決して若くはない。
雨宮 たしかに。でも、まだ本格的なヒマラヤ登山の経験者は、一般の山岳会にはほとんどいなかったから、年齢はあまり気にしなかった。個人的にはいいコンディションだったしね。ヒマラヤでも標高8000メートル以上のジャイアンツは全部登られてしまっていたから、よりむつかしいルートから登るとか、少人数のアルパインスタイルで登るとか、いろいろな登り方をするようになってきていた。鉄の時代に入ったころだね。
鹿野 どんな隊だったんですか。
雨宮 隊員は(高橋)照さんを別として10人。僕は山道具の店にいたから、当然ながら装備の担当。高所ポーターも優秀な連中が10人くらいいたし、登山期間は2か月以上、前進キャンプも5つ出してる。登り方としては、古典的なポーラーメソッド(注)で、そういう意味では目新しい登り方をしたわけじゃない。ただ僕たちの狙ったルートは、標高7000メートルあたりに、傘岩って言ってたんだけど、すごく手強い岩場があって、そこを真っ向からトライしてルートを作った。僕は一度も下に降りずに、10日以上かけて傘岩のルート工作をした。もちろん酸素は使わずにね。
結局頂上には僕自身は行かなかったけど、2人が登頂した。当時のヒマラヤはそんなもんで、誰かが登ればいいって思ってた。
鹿野 で、その経験が、次のダウラギリ1峰のサウスピラー計画につながるわけですね。
雨宮 そういうことです。
(注)ポーラーメソッド もともとは北極、南極などの極地探検に用いられた戦術で多くの物資を次々と前進キャンプに集積し、最終目標に達することを目指す。
聞き取り、構成:鹿野勝彦(全国山の日協議会 評議員)
(2022年11月21日 雨宮さんの自宅にて聞き取り)
(あまみや たかし)
1936(昭和11)年生まれ。
1960年代日本での積雪期岩壁登山、そして1970年代にヒマラヤの山々でバリエーションルートからの登攀を競った「鉄の時代」とともに生きてきた登山界のレジェンドの一人です。
2年前までの12年間沖縄に住み、沖縄県山岳・スポーツクライミング連盟の会長を務めていました。
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