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山の日レポート

山の日レポート

山の日インタビュー

「縦横無尽 雨宮節 沖縄と山を語る」#3

2023.02.16

全国山の日協議会

雨宮節さん(登山家)

【山の日インタビュー】 この人に聞く「山」の魅力
雨宮さんは2年前までの12年間沖縄で暮らしていました。今年8月11日に沖縄で開催される山の日全国大会を盛り上げるために、雨宮さんに沖縄の山々そして自然の魅力を語ってもらいます。

雲龍渓谷

衝立岩第1ハング試登

トップクライマーとして 雲稜会時代

鹿野 東京雲稜会ってどんなクラブだったんですか?
雨宮 当時の日本の代表的なクライマーだった南(博人)さんがいる、東京でも先鋭的なクラブだったね。

鹿野 そこで本格的に岩登りを始めたわけですね。
雨宮 そう。そのころの雲稜会では、入会3年目になってから岩登りのルートに行くことになってたんだけど、僕の場合、たまたま同期にいいパートナーがいたこともあって、1年目から(谷川岳の)一ノ倉沢や(剣岳の)八ッ峰Ⅵ峰のけっこうむつかしいルートに行ってた。

初めて買ったピッケル「シャルレ・モンブラン」

鹿野 高度経済成長期で、何でもイケイケドンドンみたいな時期だし。
雨宮 そうね、少しは経済的な余裕もできたから、ちゃんとした登山靴やピッケル、アイゼンみたいな道具も買えるようになった。まだけっこう高かったけどね。フランス製のシャルレ・モンブランのピッケルなんて、月給の3か月分だったよ。

鹿野 休みを取るのも大変でした?
雨宮 有給休暇を全部取るなんて、誰もしなかった時代だものね。土曜日半日休むことにして、金曜の夜行鈍行で上野から土合に行き、駅から一ノ倉の出会いまで競争して目指すルートにとっつく。同じルートを狙ってるやつもけっこうたくさんいたから、遅れをとるとその日は目指すルートに取り付けないなんてこともあったよ。

鹿野 で、1960年ごろになると、トップクライマーの一人として知られるようになる。
雨宮 南さんが1958年に一ノ倉の南稜で冬季初登攀をして、それが本格的な冬季登攀の先鞭をつけたわけだけど、僕らもそれに刺激されて、1960年冬には一ノ倉中央稜、1961年冬には一ノ倉の中央カンテを登ったんです。

衝立岩冬季初登時サポート

一の倉沢中央稜取付き

「新宿山幸」に入社

鹿野 で、もっと自由に山に行ける環境を求めて転職したわけですね。
雨宮 そう。1960年に新宿の甲州街道沿いにあった登山用品店「新宿山幸」に入社したんです。おかげで休みがとりやすくなったし、当時の最新の道具や技術も身につけたけれど、でももっとありがたかったのは、それまでのようなクライマー仲間だけじゃなく、いろんな人たちで出会えたことだね。
お店には大学教授やら幼稚園の園長さん、会社の重役や絵描きさんや小説家や、とにかくいろんな人が来る。山に行く理由や好みもさまざまだしね。そういう人達とおしゃべりしてるうちに、視野も自然と広がるじゃない。今から考えるとそれがすごく役に立ったよね。

鹿野 ところでそのころは、日本の登山者が国外、特にヨーロッパのアルプスやヒマラヤに目を向け始めたころでもありますよね。特に1950年代は、いわゆるヒマラヤ登山の黄金時代で、フランスのアンナプルナ1にはじまって、イギリスのエヴェレスト初登頂(1953年)、日本のマナスル初登頂(1956年)があって、その登山記録や映画がヒットしたりしてた時代です。
そのへんをどう受け止めてたんですか? 
雨宮 もちろんすごい刺激を受けてた。本も読んだし、映画も見たし。で、俺もって思ったけど、いっぽうで今では想像しにくいような、むつかしい条件もいっぱいあったよね。じゃあその方向で話を進めようか。
                    

聞き取り、構成:鹿野勝彦(全国山の日協議会 評議員)
(2022年11月21日 雨宮さんの自宅にて聞き取り)

(あまみや たかし)
1936(昭和11)年生まれ。
1960年代日本での積雪期岩壁登山、そして1970年代にヒマラヤの山々でバリエーションルートからの登攀を競った「鉄の時代」とともに生きてきた登山界のレジェンドの一人です。
2年前までの12年間沖縄に住み、沖縄県山岳・スポーツクライミング連盟の会長を務めていました。

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