山の日レポート
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【連載:西表島と私】 その7 島の歴史
2022.07.01
石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴から、約2万7千年前の人骨化石が出土している。当時、石垣島と西表島は陸続きだったようだ。そして西表島にもヒトがいたのだろう。ただし、西表島で発見された最古の遺跡は「仲間第二貝塚」で、3500~4000年前のものである。本州辺りでいうと縄文時代の後期にあたるが、縄文時代と弥生時代の文化的影響は沖縄島辺りまでで、先島(宮古・八重山)諸島の先史時代は北から来た文化ではなく、南方的色彩が強い。
八重山地方には南方系の風習と思われる信仰とか伝説がある。たとえばニライカナイの信仰は、「遙か南の海の彼方に楽土があり、これが民俗の故郷である」というのである。一方、北方から島伝いに南下したことを暗示している資料も多い。
たとえば言語は日本語の一地方語としての琉球方言に含まれる。研究者によれば、八重山に住み着いた先人達は、数のうえで圧倒的に多かった北方からの民族と、東南アジアあたりから北上した民族で、それらがしだいに融合されていったようである。
西表島の総人口は、2022年1月時点で2469人。第二次大戦後の農業移民により1957年には3887人を数えたが、20年後には半数を切り、さらに約1200人まで減少した時もある。現在はゆっくりと増加の傾向にある。
西表島の開拓史は「寄人」と呼ばれる強制移民による新村建設と、廃村の繰り返しであった。なぜこのような強制移民が行われたのだろうか。1609(慶長14)年、薩摩藩が琉球を征服した。薩摩藩は検地などの結果、琉球国王の禄高を8万9千86石と定め、それを基準に薩摩藩へ米約8千石の他、芭蕉布、唐芋、牛皮、上布、綿子、下布、シュロ縄、くろ縄、むしろを年貢として上納することを命じた。これに対処するために琉球王府は全琉球の村から年貢を徴収したが、宮古・八重山諸島のみこの税体系から切り離し、人頭税という別の制度を採用した。
人頭税はそうとうの重税であり、それまでの稲作ではとうていまかなえるものではなかった。そこで、八重山では稲作に適した未開墾の土地があった西表島・石垣島へ、近接した波照間島、小浜島、黒島、鳩間島などから政策による移民を行なったのである。
西表島の人口がもっとも多かったのは1690年頃から約60年間だったと言われ、およそ1万1000人が住んでいた。しかし、マラリアや重労働で人口は減り続け、村そのものがなくなった所もあるが、そのたびに新たな移民がなされたようである。強制移民は1879(明治12)年の廃藩置県後も続き、1903(明治36)年になってようやく廃止された。この頃には居住の自由が認められるようになったが、それにより村の人口が急激に減少した。かつては700名を数える時代もあった高那、南風見、野原、仲間などが、明治30年代から大正時代にかけて廃村になった。廃村は、上記の他、旧古見、与那良、旧船浦、旧上原、旧浦内、成屋、崎山、鹿川などが知られている。
クバ(ビロウ:ヤシ科の常緑高木)がある場所は、かつて集落や御嶽(拝所)があった所、すなわち人が住んだことのある場所である。
西表島は、沖縄県で唯一石炭を産する島である。石炭は1852(嘉永5)年、ペリー艦隊の主任技師ジョーンズが発見したとされるが、西表島を調査した形跡はないという。
翌1853(安政1)年、琉球政府は西表島での石炭の存在を、日本人にも外国人にも教えることを厳禁する命令を出したが、この事実により、琉球政府は以前から石炭の存在を知っていたようだと解釈されている。
石炭の採掘は1885(明治18)年、三井物産により始められた。採炭は第二次世界大戦の敗戦まで60年間行われ、一部では1968年まで続いた。
炭鉱の中心は内離島だったが、仲良川中流~下流域、浦内川にもあった。とくに宇多良炭鉱は西表島最大の山で、映画館など娯楽施設まで備えた炭鉱村として栄えた。大正時代と昭和10年前後には、1400人位が働いていたと言われる。炭鉱は一般の集落から隔離され、坑夫は終始監視のもとに重労働を強いられたそうだ。炭層が非常に薄いので、たぬき掘りと言って一人一人が寝ころんで掘らなければならない。しかも真っ裸で毎日8時間も穴に入りっぱなし。給料は現金ではなく5銭、10銭とスタンプを押した紙で、炭鉱内の売店でしか通用しなかった。これは逃亡を防ぐための一手段であったようだ。
宇多良炭坑跡へは、浦内橋から徒歩約30分で行くことができる。積み上げたレンガのトロッコ橋の脚、共同浴場などがあるが、ガジュマルの根に幾重にも被われて、ジャングルの静寂の中に埋もれつつある。
(炭鉱の場所については、島内地図参照)
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