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山の日レポート

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自然がライフワーク

【連載】地図(地形図)についての雑記帳 その11 ~ネパール編(6)~ 

2022.06.01

全国山の日協議会

震災の後で 2

 ところで、ネパール全土の地形図が、統一規格で発行されるようになったのは1960年代からなのだが、その地図の作成主体はインド測量局で、作業は1920年代に開始されている。ただ地図そのものは、当時は秘密文書扱いだった。
 1970年のチョモランマ(エヴェレスト)登山のときには、隊に同行したネパール政府の連絡官が持っていて、頼めば見せてくれたのだが、隊が通過するルートに関する限りは、「ネパールヒマラヤ調査」プロジェクトの地図があったから、その必要がなかった。
 後にその地形図(政府連絡官の持つ地図)の実物を詳しく見ると、多色刷りでなかなかよくできているのだが、いわゆるマイル・インチ(1マイルを1インチにする。数値としては縮尺62500分の1)の地図で、等高線の間隔は100フィート(約30メートル)、つまり英領インド(現在のパキスタンやバングラデシュなどを含む)で19世紀以来作られてきた地形図の作り方をそのまま踏襲しており、メートル法になじんでいる私たちには、いささか使いにくいものだった。

ドイツとオーストリアの共同プロジェクト「ネパールヒマラヤ調査」により作成された地図

「ネパールヒマラヤ調査」により作成された地図をもとに作られた青焼き地図(変色して赤みがかってしまう)

PDF:エヴェレストへの地図


サレリ へ

 私たちは早朝カトマンズを出て、いったん南下してから東に方向を変え、オカルドゥンガのあたりからソルに向かって北上する。道路はいたるところで修復工事が行われており、場所によってはかなり大きく迂回する未舗装の道を通ったり、一方通行でしばらく待たされたりと、やたらと時間がかかる。サレリに着いたのは23時過ぎで、所要時間はカトマンズからおよそ15時間だった。

1990年代にネパール政府がフィンランドの支援で作成した5万分の1の地形図

PDF:地震発生場所


 ソルでは、そのころにはすでに倒壊した建物の多くは撤去され、復興のための作業もかなり進んでいたのだが、その進展具合が村によってかなり差があるのが気になった。その差はどこから来るのか。どうやらそれは、国外から地域に直接入って来る支援物資や資金の多少によるらしい。政府による村レベルでの復興事業は、このあたりではまだほとんど行われていない。

 ⁂「次からの写真のうち、特記のないものは、前回同様、古川不可知さんから提供を受けたもの」

 

2015年5月12日、東部ネパールはマグニチュード7を超える余震に見舞われさらに被害が拡大した。

テントでの避難生活が続く

当時 村はずれに集まって話しあう村人たち

 具体的には地震の直後から、今では村人のだれもが持っているスマートフォンで、外国に住んでいる親戚や知人などに向けて、被害状況が写真付きで発信され、受け取った人はそれを周囲の人々に見せて、自分の出身地や家族への支援を求める。そういったプロセスがどれだけ有効に機能したかで、復興の過程にも差が出たということのようだ。
 冒頭で、地方の村落での被害に関する情報が乏しいと書いたが、実はマスコミの世界ではそうであっても、個人レベルでは膨大な情報が、地震直後からグローバルに飛び交っていたのだ。私のようなICTに疎い人間が、それに気づかなかっただけである。
 村々では、国外から送金してくれた支援者たちの名前、居住地と金額などを、寺院の壁などに張り出していた。そこには、国外在住のシェルパだけでなく、外国人の名前も多く、その居住範囲も北米、ヨーロッパ、湾岸諸国、それにシンガポールやタイ、日本などに及ぶ。

これは崩れた仏塔の修復のため寄進した地元民の氏名、金額を記して張り出した表  (2016年に筆者が撮影)

 そういった掲示を写した写真は、再度スマートフォンで支援者に送り返す。このやり取りが繰り返されて、今も支援は続いているのだそうだ。
 現代とは、たとえば大使館を経由して義援金を送るなどというやりかたに比べ、こういった「顔の見える」個別の支援が、より効率よく復興を支える時代なのかもしれない。

 

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