山の日レポート
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『円空の冒険』諸国山岳追跡記(9)【三重県編】 清水 克宏
2024.11.01
山岳修行僧円空が、全国各地の山々で冒険的ともいえる修行を重ねていたことは、これまでにご紹介してきたとおりですが、その和歌をよむと、意外にも海との関わりも深いことに気付かされます。特に多く詠まれているのが、江戸時代は伊勢・志摩・伊賀三国に分かれていた三重県の、伊勢・志摩の海です。同地には、神仏像のほか、志摩市の片田と立神に、円空の造形の大きな転換点の証しとなる大般若経の見返し絵も残されています。円空の足取りを、伊勢・志摩の海と山に追いかけます。
1 三重県に残る円空の足跡
円空が、寛文3(1663)年から翌4年にかけて、美濃国郡上郡南部(現在の郡上市美並町)周辺で造像活動を始め、同5(1665)年には弘前藩に入り、翌6年に蝦夷に向かったことは、これまでご紹介してきたとおりです。しかし、近年、極初期の様式を持つ像が三重県で相次いで発見され、寛文5年、円空が蝦夷に向かう直前に伊勢を訪れていたことが明らかになっています。
そして、前回奈良県編で触れたように、円空は、寛文12(1672)年から延宝3(1675)年の4年間に3度の大峯修行を行い、その合間となる延宝2(1674)年に志摩の片田と立神で『大般若経』の修理を行い、志摩および伊勢に諸像を残しています。
伊勢神宮のある三重県は、明治初年の廃仏毀釈の激しかった地域で、神仏習合の信仰にもとづく円空の像は、その多くが失われたものとおもわれます。それでも、約20体の円空像が残され、さらに25首あまりの和歌がまとめて残されていることからも、円空にとって格別思いの深い土地であったことがうかがわれます。
円空が寛文5年、蝦夷に渡る前に伊勢を訪れたことは、美濃に伝わる極初期像と共通する様式を持つ、津市白山町の浜城観音堂の大日如来坐像や伊勢市の中山寺の文殊菩薩坐像が相次いで確認されたことから、明らかになりました。
円空は、蝦夷に渡る前から法隆寺を訪れていたと推測されていますが(小島梯次氏著『円空・人』)、白山町は、伊勢と大和を結ぶ初瀬街道が通っており、浜城観音堂の大日如来坐像(画像1)は、それを裏付けるものです。
一方、伊勢市の中山寺には、近年発見された寛文5年作と推定される文殊菩薩坐像のほか、延宝2年頃と推定される護法神像など3体も伝わります。同寺は、慶安5(1651)年に亀山藩主石川昌勝の帰依により、後水尾天皇や徳川家光など多くの公家・武家から帰依を受けていた愚堂東寔(ぐどうとうしょく)が開山した臨済宗妙心寺派の寺院です。どうしてこのような由緒ある禅寺に、山岳修行僧円空の像が伝わるのか疑問に思い、円空の像がどのような宗派の寺院に伝わっているのか、円空像の集中する岐阜県と愛知県について調べてみました。すると、表1「円空像を所蔵する寺院の宗派別内訳」のとおり、意外にも禅宗である臨済宗妙心寺派と曹洞宗の比率がきわめて高く、岐阜県(旧美濃国・飛騨国)では合わせて7割近くにもなることが分かりました。これは、愚堂東寔が美濃の出身で、全国でも妙心寺派の寺院が最も多い地域であることも背景にあると考えられます。
また、現在の伊勢市は、伊勢神宮を中心とした「神都」のイメージがありますが、『宇治山田市史』によると、江戸時代の寛文6(1666)年には、神宮周辺に371もの寺院が存在したそうです。その中には、奈良県編でご紹介した大和国の松尾寺と同じく、真言宗系の修験寺院である当山派の中核となる十二大先達寺院の中でも最大規模の世義寺威徳院もありました。それが廃仏毀釈、修験道廃止令を経て、昭和初年には、わずか24寺院しか残っていませんでした(荻原龍夫氏論文『伊勢神宮と仏教』)。伊勢での円空の足取りを追跡するには、そんな予備知識を踏まえる必要があります。
円空が、寛文5年、蝦夷に向かう直前に伊勢を訪れたのはなぜなのか、明確な理由は分かっていません。ただ、同年蝦夷では、不吉の兆しとされた彗星が現れ、松前藩日本海側の上ノ国太平山(大平山)が鳴動して天河(天の川)の河口部が陸になってしまい、さらなる災禍におののく状況にあり、同地の11箇所に新たに堂が建造され、「神体円空作」の像が置かれたことから、円空はこれを鎮めるために蝦夷に向かったと考えられます。当時の伊勢神宮は、大災害や彗星の出現など天変地異が起きた時に天皇が祈祷を行わせる七社七寺のひとつでした(間瀬久美子氏論文『近世朝廷と寺社の祈祷―近世的七社七寺体制の成立と朝幕関係』)。円空は、その神威を頼って訪れたのではないでしょうか。
⑴志摩での足取り
円空は大峯山での冬越しの厳しい修行を経て、延宝2年春には志摩国を訪れています。3月には、片田村(志摩市志摩町片田)三蔵寺の『大般若経』600巻(599巻現存)を巻物から折本に改め修復、その扉に見返し絵58枚を描き、巻第281の末尾には「イクタヒモ タエテモ立ル法之道 九十六憶スエノヨマテモ」(幾たびも 絶えても立つる法の道 九十六憶末の世までも)と、護法を祈る和歌を記しています。円空が、大般若経を補修し、転読しやすいように折本に改めたのも、護法の行為のひとつだったのでしょう。これ以降、同種の和歌を、立神の大般若経をはじめいくつかの像の背銘に残しています。
『大般若経』は、三蔵法師という別名で知られる玄奘(602~664年)が、西域から唐に持ち帰った大乗仏教のさまざまな般若経典を翻訳・集大成した600巻に及ぶ膨大な経典で、わが国では、奈良時代前後から受容され、盛んに写経・読誦されました。ただしその膨大な経を実際に通読するのは大変なので「転読」とよばれる、経題と中間の数行と巻末を読み上げることで一巻を読み終わったとする略読が一般的で、浄土真宗、日蓮宗など一部の宗派を除く寺院、神社および修験において、徐災招福や雨乞いの祈祷などのため、広く行われてきました。
大般若経には、見返し絵として釈迦三尊、玄奘三蔵と深沙大将とともに十六護法善神が描かれることが一般的で、円空も三蔵寺の大般若経に大胆な省略をはかりながら描いています。しかし、円空の見返し絵は、そこに大般若経とは関わらないはずの、法華経の提婆達多品第十二で女人成仏の証しとして登場する娑竭羅龍王の8歳の娘の龍女が登場するのが独特です。これには次のような背景が考えられます。
三蔵寺は真言宗醍醐寺の末寺として、平安時代後期に創建された当地きっての歴史を持つ祈祷寺で、伊勢の十二大先達寺院世義寺とも深い関わりがありました。醍醐寺は、雨乞いの祈祷で知られ、その信仰は、空海が将来したと伝わる清滝権現、善女龍王(古くは善如龍王)、および法華経の龍女が一体となったものでした(藪元晶氏著『雨乞儀礼の成立と展開』)。円空が大般若経の巻第1で、8歳の龍女が釈迦に宝珠を捧げる様を描き、以降の巻に釈迦の脇に宝珠を持ったおそらく善女龍王と同体としての龍女を描いているのも、そのような信仰を受けてのものと考えられます。
円空にとって、この見返し絵を描くことは、徐災招福や雨乞いの祈祷などの拠りどころとなる大般若経の世界と、女人成仏をはじめ、誰もが平等に成仏できる思想を持ち、観音信仰などの拠りどころともなる法華経の世界の融合を体得する機会にもなったのでしょう。
そして、片田に続いて6月上旬から8月中旬にかけて立神の薬師堂でも大般若経を補修し、欠本だった21巻分を補足して巻物から折本に仕立て直し、130枚の見返し絵を描いています。そこでは片田本よりもさらに大胆に省略が進み、護法神や宝珠を持つ龍女(善女龍王)そして龍が、釈迦に次ぐ存在のように描かれます。これは、農漁村である立神において、転読により嵐を鎮め、水をもたらし、豊漁をもたらす願いを込めたものでしょう。かつて張振甫のもと鉈薬師で初めて登場した龍が、自家薬籠中のものとなって大胆な筆致で自在に描かれ、白隠(1686~1769年)や仙厓(1750~1837年)などの禅画を先取りしているようにさえみえます。
立神の大般若経については、補修に関する資料が伝わり、立神の少林寺、本福寺をはじめ、周辺の8寺が協力した旨が記され、そのうち曹洞宗の1寺以外は、臨済宗妙心寺派の興国寺(和歌山県由良町)の末寺であったことが分かっています(三重県総合博物館『三重の円空』展図録)。表1「円空像を所有する寺院の宗派別内訳」や、この片田と立神での大般若経の修理の経緯の違いなどをみると、寺請制度をはじめ宗教統制の厳しくなる江戸前期に生きながら、宗派にとらわれることなく、護法のために生きようとした円空の姿が浮かび上がります。
そして、大般若経の見返し絵の大胆な省略と軌を一にして、円空の造像も劇的に変わっています。少林寺には、巨大なサクラの原木をそのまま使い、大胆な鑿さばきで、あたかも木から涌出したように彫りだした善女龍王の像が伝わります(像高215㎝)。同寺にはほかにも朽ちかけた木に顔だけ彫った聖観音立像(58.8㎝)や、樹皮の付いたままの木に目口だけを穿った護法神(91.5㎝)もあり、その儀軌を超越した自在な造形は、現代人の心にも直接響きます。
おそらく円空が最後に志摩の地に残したのが、五知村(志摩市磯部町五知)最奥の古五知集落の薬師堂に薬師三尊立像です。薬師堂は、朝熊ヶ岳(555m)山上にある「伊勢神宮の奥の院」とも呼ばれる金剛証寺へ向かう「岳道」の入口に位置します。円空は、薬師三尊像を造顕した後、岳道をたどって金剛証寺に詣で、伊勢に出たのでしょう。金剛証寺に円空の像は残りませんが、天照大神の化現した姿として同寺で信仰を集めていた雨宝童子の像を、後に尾張の荒子観音寺に残しています。今回の踏査で、志摩から伊勢に向け、ほとんど人の通らない落ち葉に埋もれた岳道をたどってみると、照葉樹林の木立の中に、円空の背中が見える思いがしました。
⑵伊勢での足取り
伊勢において円空は、伊勢外宮の宮司渡会氏の氏寺だった天台宗の常明寺に薬師如来と阿弥陀如来を一枚の厚い板の両面に彫るという大胆な両面仏(165㎝)を造顕しています。鎌倉時代、平氏に焼き討ちにされた東大寺の復興を祈念して、東大寺大勧進職の重源が大般若経を転読供養したのが、この常明寺でした。同寺は廃仏毀釈によって廃され、像は三重郡菰野町の明福寺に移されています。同様に、愛知県西尾市の浄名寺に伝わる巨大な観音像も「明治2年伊勢国奥坂伝来」と伝わり、伊勢から船で運ばれたといいます。像高264㎝、背後は朽ちたクスの巨木で、胸あたりのコブも乳房か赤子を抱くような姿として活かしています。陰りのないその笑顔は、拝する者の心を晴れやかにしてくれます。
円空が、伊勢を詠んだ歌に、次の一首があります。円空の大胆な省略、おおらかな造形は、伊勢・志摩の明るい海を舞台に初めて会得できたものではないでしょうか。
伊勢海 玉を捧 あまならぬ 法舟橋 渡々二
(伊勢の海 玉を捧ぐる 海女ならぬ 法(のり)の舟橋 渡り渡りに)
話は少し遡りますが、円空は、蝦夷への旅の帰路に、津軽の梵珠山(468m)に登り、山上に釈迦如来坐像を残しています(現青森市元光寺蔵)。梵珠山は、唐に渡り玄奘三蔵の愛弟子となり、のちに行基の師となった法相宗の僧道昭ゆかりの山です。道昭や行基は各地を遊行し、土木事業などを行っています。道昭や行基を介して、円空にとって玄奘三蔵は決して遠くはない存在だったのでしょう。
円空は、大般若経の見返し絵や、当地での造像を通じて、大胆かつ効果的な省略法を自らのものとすることで、膨大な数の造像が可能となる技を身に着けました。そして、大峯修行直後の延宝4(1676)年春に造られた、龍泉寺(名古屋市)の馬頭観音像の背銘に「日本修行乞食/沙門」と墨書し、多くの像を造りながら、日本各所を遊行するようになります。
仏教民俗学者の故五来重氏のように、円空を中世に繋がる「聖」とも呼ばれる職業遊行僧のひとりとみなす研究者もいます。しかし、その足取りを、先入観なしで追いかけていくと、円空はむしろ、厳しい大峯修行ののちに、玄奘三蔵、道昭、行基などに連なる者としての自覚と自負を持って、護法の使命を胸に全国を遊行するようになったととらえる方がふさわしいと思えるのです。
<注> 画像は、所有者の許可のもとに使用させていただいており、二次使用は固く禁じます。
(次回は、12月1日愛知県編Ⅱを掲載予定です)
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