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『円空の冒険』諸国山岳追跡記 (4)【宮城県編】
2024.06.01
山岳修験僧円空の、当時蝦夷と呼ばれた北海道への遠い旅において、青森、秋田を経由したことは、残された円空像から分かっていましたが、その先の足取りが不明でした。昭和48(1973)年、宮城県松島町瑞巌寺で初期様式の釈迦如来坐像が発見され、円空が松島まで足を延ばしていることが確認されました。山岳とは関りのなさそうな景勝地松島を円空はなぜ訪れたのか、追いかけていきます。
円空の造像活動はすさまじく、生涯12万体もの仏像を彫ったとも伝えられています(『尾張名所図会』など)。しかし、明治初年の廃仏毀釈などを経て、現在確認されている像は5400体あまりですから、その5%未満ということになります。円空像が1体だけ残るお寺で「先々代が、一番丁寧に造られた像だけ残して薪にしたら、ひと風呂沸いた」などというお話も伺いました。したがって、現在像が確認されていなくても、円空が足を運んで、山岳修行をし、造像活動を行った場所は数多くあったと考えられます。
そんな、像が伝わっていない場所での円空の足取りを追いかける手がかりとして、和歌があります。円空の和歌は、岐阜県高山市丹生川町の袈裟山千光寺に『けさ百首』が伝わっているのはかねてより知られていましたが、昭和35(1960)年、同県関市洞戸の高賀神社の大般若経の見返しから円空の歌稿約1600首が発見されました。それらを合わせると、円空の和歌は1700余首が確認されています。円空は、日記などを一切残していませんから、和歌が足取り追跡の貴重な手掛かりとなります。
そんな円空の和歌の中で、松島を詠んだものが、次の3首あります。梳器・櫛器(くしき)は、櫛を入れる化粧箱のことで、他の歌も合わせ読むと、母の形見だったのではないかと推測されます。
松嶋や 梳器の水は 玉(の)尾の [ ] 手向(く)袖にも
松嶋や 梳器の水を 手向(く)らん 玉よりくるか 結ふかすかす
松嶋や 小嶋の水お 手向(く)らん 櫛器の水二 浮(か)ふ玉かも
このように歌稿の中に松島の歌があることが確認されていましたが、当時はまだ松島に円空像は確認されていませんでした。その後昭和48年、瑞巌寺で宝物館建設に伴う寺内の仏像や古美術品の調査が行われた際、薪置き場となっていた洞窟から釈迦如来坐像が発見され、著書『奇想の系譜』などで、従来の美術史ではあまり評価されていなかった、岩佐又兵衛、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪などを世に知らしめた日本美術史学者辻惟雄氏らの調査で、円空作と明らかになりました。ほかにも、和歌を手掛かりにして円空像が発見された事例がありますから、現在円空像が発見されていなくても、和歌に詠まれている山岳や土地は、追跡の対象地としていく必要がありそうです。
松島湾に多くの島々を配した松島は、日本有数の景勝地で、円空より20年ほど後になる元禄2(1689)年に、芭蕉が奥の細道の旅において立ち寄ったことで知られます。しかし、厳しい山岳修行に励む修験僧円空が、風光を愛でるために当地を訪れたとは思われません。
円空が松島を訪れた事情として、まず考えられるのは、松島に近い仙台や石巻は、円空が蝦夷松前藩に渡る仲介役であったと考えられる近江商人の一大拠点だったことがあります。北上川から石巻港に至る運河のための水路整備や石巻港の築港は、仙台藩に雇われた近江出身の技師川村重吉(1575-1648年)によって成し遂げられ、同藩の米は石巻港に集められて江戸に送られ、当時、江戸で消費された米の三分の二を占めたとも言われています。松島から先に円空の像も和歌も残されていませんから、円空は、石巻あたりから船で江戸を経て尾張・美濃方面に帰還する途中、松島に立ち寄ったのではないでしょうか。
また、松島というと、仙台藩初代藩主伊達政宗が造営した瑞巌寺の本堂や庫裡などの壮麗な桃山建築をイメージされるかもしれません。しかし、瑞巌寺の前身は平安時代にまでさかのぼる延福寺という慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であったといい、その後、鎌倉時代に禅宗に転じて臨済宗円福寺となり、さらに天正6(1578)年頃、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属しました。そして、慶長9(1604)年に伊達政宗が復興を開始し、同14(1609)年現在の伽藍が完成し、この折、寺の名を改め、現在の正式名称「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と称するようになったのです。
一方、松島湾に浮かぶ雄島は、見仏上人ゆかりの土地で、長治元(1104)年、伯耆国(鳥取県)から来訪した上人は、雄島に妙覚庵を建て、12年間法華経を唱え続け神通力を得たとされ、その名声は朝廷まで届き、元永2(1119)年、鳥羽天皇より仏像・宝物を贈られたと伝えられます。実は見仏上人なる僧は複数いたようで、鎌倉初期に同じく雄島に住んだ見仏上人は、法華経の教義を人びとに授け、法華浄土への往生を説いて、死後の不安を解消させたといいます。このような由来から、中世の松島は「奥州の高野」とも称される死者供養の霊場という側面も持っていたのです。
円空は蝦夷への旅の往復に、有珠善光寺や、恐山菩提寺など、円仁開山伝承のある寺を訪れています。そして、瑞巌寺の属する臨済宗妙心寺派においては、美濃国出身の妙心寺住持愚堂東寔(1577-1661年)が傑僧として知られ、伊達政宗も瑞巌寺に招こうとしたと伝わります。美濃は妙心寺派の禅寺が全国で最も多い地域で、円空も各所に像を残しています。さらに、円空は法華経を篤く信奉していました。このようなさまざまな縁(ゆかり)から、円空は松島に立ち寄り、像を残したのではないでしょうか。
瑞巌寺の釈迦如来坐像は、薪置き場の洞窟に放置されていた時期があったため、損傷が激しいのですが、獅子坐の上の蓮台に禅定印を結び結跏趺坐する丸彫りの像で、総高124.5㎝、像高64.8㎝あり、円空の坐像の中ではもっとも大型の像のひとつです。ケヤキの切株部分を用材としており、瑞巌寺境内に今もケヤキの古木があるので、おそらく枯死した切株を使ったのでしょう。
円空の像というと、道端に転がっていそうな木の破片を使った「木端仏」をイメージされる方も多いかと思います。しかし、円空が造像を始めて間もない寛文年間は、もっぱらヒノキなど良質の材を用いており、円空像の鑑定にもあたられている円空彫刻の研究家山田匠琳氏に伺うと、当時まだ木取り(原木の木理を見て彫刻すべき部分を切り出すこと)ができず、用意された材、あるいは建築材などをそのまま使っていたと考えられるとのことです。そんな円空が、扱いにくいケヤキの切株に挑んだのはなぜなのでしょうか。
このことに関しては、瑞巌寺第104世夢庵如幻が著した『松島諸勝記』(享保元(1716)年)に、妙道虚玄禅師(第101世鵬雲東搏)が母のために建立した千仏閣の由緒に関して、大意次のように記されていることが手掛かりになります。
「寛文九年(一六六九)六月下旬、浄西という仏工がやって来て、この景勝の地であり仏法不尽の霊区でもある貴山に、千仏像を刻して安置したいと申し出た。時の住持はそれに対し、当山は岩も木も島も魚も、皆ことごとく法身仏であり、生きた木を伐って仏像を彫り出すようなことは禅門下として肯定できないと断った。だが浄西は泣いて哀願すること再四に及び、ついに住持は浄西の誠意に免じて願いを叶えさせることにした。浄西は歓喜して、山中に入って榧(カヤ)の木を切り用材とし<中略>一年のうちに千体を彫り上げた。よって小堂を建ててそれらを奉じ、また“円空法師造る所の釈迦鉅像”を以て、中央に安置し、千仏閣と名付けた。時に庚戌(寛文十年)の秋であった。」瑞巌寺は、明治初年の廃仏毀釈でいったん荒廃した時期があったため、おそらく千仏閣も浄西の造った千体仏もこの時に失われ、円空の釈迦如来像だけが辛うじて伝わったようです。
この『松島諸勝記』の記事を裏読みすれば、円空は、岩も木も島も魚も、皆ことごとく法身仏である松島の地において、造像に適した材を得ることがかなわず、ケヤキの切株をもって釈迦如来坐像を造ることになったのでしょう。円空が、由緒ある瑞巌寺に納めるため、これまで作ったことのない大きな坐像を、しかも丸彫りで造るにあたり、扱いにくい材に挑まざるを得なかったのは、相当な冒険だったはずです。そのような挑戦は、円空がどのような材もいとわずに、人びとに寄り添う像を多作していく出発点ともなったのだなあと思いつつお像を拝すると、より尊く思われるのでした。
<参考文献> 小島梯次氏著『円空と木喰 微笑みの仏たち』(美術出版)
円空学会編『円空研究 別巻➀』辻惟雄氏著「瑞巌寺の円空作釈迦座像に就て」
<注> 画像は、所有者の許可のもとに使用させていただいており、二次使用は固く禁じます。
(次回は7月1日長野県編を掲載予定です)
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