山の日レポート
山の日インタビュー
連載④ 東奔西走 ダルマ・ラマ 富山からネパールと日本、世界をつなぐ
2023.10.16
鹿野 「せっかく慣れてきた勤め先が倒産して、それからどうなったんですか」
ダルマ 「そのころには富山にもいろいろ知人が出来ていて、そういう人たちから、いろいろ声をかけてもらえるようになっていました。
一つは、日本人の仏画師のかたに紹介してもらって、自分ももう一度、絵を描こうって思った。しばらく絵の世界から離れていたけど、日本にもこういう絵に興味を持つ人も一定数いるってことを知って、がぜんやる気がもどってきたんです。仕事として絵を売ろうとかじゃなく、ネパールの仏画について、多くの人に知ってほしかった。で、絵画教室も始めました。
それから料理に興味がわいてきた。それまで料理なんてほとんどしたことがなかったけど、料理屋さんでアルバイトをしたのがきっかけで、面白いなって。仕事とは別に、なにかの集まりでネパールの料理を作ってふるまったりすると、みんなが喜んで、興味を持ってくれる。これも文化の交流ですよね。
国際交流事業で、学校で教えたり、そのころになると富山にもネパール人が増えてきて、いろんなところから通訳を頼まれたり、とにかく人とのつながりがどんどん増えていった。来日したばっかりのころの寂しかったのが、うそみたい。それがうれしかった」
鹿野 「ちょっと話が飛んでしまうけど、そうやって日本での生活がそれなり充実していったころの2015年の春、ネパールで大震災が起きた。
その地震について、まず私のほうで確認をしておきますが、4月25日にカトマンズ盆地の西のゴルカ郡を震源とするマグニチュード8を超える本震が、また5月12日にはカトマンズの東方のラメチャップ郡、ドラカ郡のあたりを震源とするマグニチュード7を超える最大規模の余震があった。その被害としては、直接の死者だけで少なくとも8千人以上ですか。家屋の倒壊や、道路等のインフラの崩壊などの被害も大変なものでした。
ダルマさんの出身地は最大余震の震源地に近いシンドゥパルチョク郡だから、被害もおおきかったわけですよね」
ダルマ 「はい。そうなんです。で、そのころにはリサンクの人たちもみんなスマートフォンを持ってるから、地震の直後から、私のように外国に住んでいる家族や友人知人に、写真付きで被害の状況を知らせて、助けてくださいっていう連絡がいっぱい入ってきた。これは大変だ、なんとかしなきゃって思った」
鹿野 「僕もあのときはびっくりして、新聞やテレビ、まあ多少はネットの情報サイトなんかも注意して見てたんだけど、そこで伝えられているのはカトマンズ周辺や、外国人観光客が多くゆく限られた地域の被害状況がほとんどでした。地方の農村や山村でも大きな被害が出ているはずなのに、そこでの状況についてはほとんど報道されない。また日本を含む世界中からの支援も、多くはカトマンズというか、首都圏に集中しているように見えた。
でもそういった村々からも、個別にいろんな形で被害状況や支援の要請が発信されていたんですね。僕みたいな古い世代の人間は、そのへんが最初はわからなくて・・・」
ダルマ 「それは先生だけじゃないでしょうね。私なんかは、とにかくまず自分の家族や村の人たちだけでも、なんとか少しでも助けたいって思った。正直に言えば、政府やそれを通じての支援が、地方の村に届くだろうって期待はほとんどしてませんでしたから。でも私個人でできることなんてたいしてない。
で、それまでにおつきあいのできた人たちに、できる範囲で助けてくださいって、お願いすることにしたんです」
鹿野 「具体的にはどんなふうに?」
ダルマ 「富山には、それまでも東北地方の大震災初め、いろんな災害の支援をしてきた『アジア子供の夢』(代表 川渕映子氏)っていうNGОがあるのを知ってたんで、まずそこへお願いに行ったら、わかった、すぐ対応しようって言っていただいた」
鹿野 「それまで、直接の面識はなかった?」
ダルマ 「はい、まったく。で、それから私の出身地であるリサンクと、やはり富山にいたネパール人の出身地の、わりと近くの二つの村を主な支援対象地として、現地の要望を聞いて、予算の半分くらいは日本で手にいれて現地に運ぶ物資の購入に、半分くらいは現地で購入する物資に充てることにし、現地の物資購入や交通手段の手配はバクタプールにいる兄に頼んで、川渕さんと私を含む5人が日本を出たのは、5月15日でした」
鹿野 「というと、地震発生から3週間ですか。すごいな」
ダルマ 「私もこんなに早く、こんなに本格的な支援ができるとは思っていなかった。自分でもびっくりしたし、日本ってすごいって、改めて思いました。
このときは、食糧とか、仮設住居用の波板鉄板とか、タオルみたいな生活物資や文房具とか、緊急支援物資が主だったんですが、そのほかに現地で要望を聴いて、その結果、村の近くの道路や橋、それに学校の補修のための資材購入用にある程度のお金を渡して、作業のほとんどは村人がボランティアでする、って決めた。で、来年、どこまでそれが進んでるか、見にくるっていうことにしたんです」
(次回は11月1日掲載)
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