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山の日レポート

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通信員レポート

冬剱雪黒部2 その1

2023.05.11

全国山の日協議会

文・写真提供:和田城志さん

これから私の登山記録をなるべく時系列に沿って、写真と共にご披露しよう。また、登山記録と関連のある考え方や登山の在り方などについてもコメントをはさむことにしよう。

五竜岳東谷山尾根から見た剱岳北方稜線

遭難について

私が入学した1969年の正月はすごい豪雪で遭難が相次いだ。特に剱岳周辺では、5パーティ18人が亡くなった。雪崩、滑落、衰弱凍死、剱岳はあらゆる雪山遭難を演出して見せた。悲劇だった。60年代は登山人口の爆発とともに遭難が急増した。それで富山県は1966年に登山届出条例を公布し、立ち入り禁止区域を設けた。
当然山岳界、特に先鋭的な登山者から反対の声をあがった。「個人的スポーツである登山を条例で制限できるのか?より高きより困難を求めるアルピニズムの自由精神こそが登山の本質である以上、規制するのはまちがっている」と主張したのだ。条例の意図は、知識、体力、技術の未熟な登山者に注意を促すことによって、多発する遭難を減らしかったのである。確かに効果はあった。しかし、大自然の猛威は人間の思惑をはるかに凌駕している。1969年の大量遭難はそれをよく示している。

池の谷ガリーを登る 背後遠望は毛勝山

遭難はなくならない。遭難の危険のない登山なんてものはない。だから不断の努力と準備を怠ってはいけないのだ。そして忘れてはいけない。山を登り続けていたら、いつか遭難に遭遇するということを。誰のせいでもない不可抗力の遭難があることも。私は三度遭難したが、幸運にも命を長らえている。今まで何人の山仲間を失っただろうか。
遭難を擁護するつもりはないが、メディアで語られる言説に不満を持ったことが多々ある。遭難は、モノ、コト、ヒトが絡み合って起きる。遭難を第三者が評論するとき、モノ、コトとヒトを分けて論じる場合が多い。それは当然のことだけれど、話の終盤になると、社会の迷惑や自己責任論など、ヒトに関する言説が重きをなすようになる。聞く人が納得しやすいからだろうか。誰かのせいにしたら分かりやすいからだろうか。
モノ、コトは科学的エビデンスが必要な批判対象である。装備はどうだったか、天候は、行動計画はと、いくつものの要素分析が必要だから、にわか山岳評論家にはけっこう厄介である。ヒトは個人である。それも反論できない故人である。だから批判ではなく、容易に非難に変わってしまう。過去の登山記録や生活習慣、人間関係、性格が持ち出される。「罪を憎んで人を憎まず」は『孔叢子』刑論にある孔子の言葉らしいが、「遭難を憎んで遭難者を憎まず」の気持ちで見守ってほしい。

空撮:毛勝山上空から見た剱岳北方稜線 白黒

剱岳北方稜線の魅力

1969年の遭難は、南国育ちの登山初心者の私にとって衝撃だった。冬の剱岳なんか絶対に登れないと思っていた。実際、山岳部現役時代は積雪期の剱岳には足を踏み入れていない。しかし、あこがれは持ち続けていた。それが剱岳北方稜線だった。
北方稜線の登山史はたいへん面白いのだが、長くなるのでほんの一部を紹介するにとどめる。基本的には毛勝山塊から剱岳へ縦走する記録、特に宇奈月からの長期縦走を対象とする。30年ほど前に、クライミング情報誌『岩と雪』162~164号で「剱岳-北方稜線の積雪期登山―」と題して地域研究の登山史ノートを発表した。興味のある方はそれを読んでほしい。
北方稜線は岩壁登攀とは趣は違うが、日本屈指の難しい山稜である。それは気象条件の悪さのせいだ。この南北に連なる長大な尾根は、豪雪と強い北西の季節風、日本海からの暴風雪をまともに受けるからである。厳冬期はまともに晴れることはほとんどない。だから雪山登山の爽快さはなく、深い雪にうずもれてただ耐えるだけである。私が剱岳山塊に魅かれたのはそれに尽きる。
登山者の技術や体力の優劣、そんなものを粉砕する圧倒的な自然の驚異、それが魅力だ。この山では、成功より失敗の方が、速いより遅い方が誇りになる。登山期間が長ければ長いほど価値がある。昨今、登山の競技化がかしましいが、私は人間の優劣などに興味はない。(お叱りの声が聞こえそうだ)本物の自然に埋もれていたいだけだ。登山の主人公は山で、人はわき役に過ぎないことを忘れてはならない。自分のパフォーマンスに関心を持ちすぎるなと言いたい。

図:1957年3月始めて北方稜線をトレースした法政大学山岳部のキャンプ配置図

北方稜線登山史

戦前の記録では、立教大学などが剱岳北面に輝かしい記録を残したが、宇奈月尾根からの長駆縦走を最初に試みたのは戦後になってからだった。1954年3月、地元の魚津高校山岳部が試みた。毛勝山は越えたが大窓までで敗退した。OBが参加したとはいえ、高校生がチャレンジするとは頭が下がる。毛勝山北西尾根から剱岳を初めて往復したのは、1955年3月3日~30日の京都大学だった。メンバー17名、極地法、ほぼ一ヶ月に近い山行だった。このときのメンバーが後のヒマラヤ遠征で活躍した。チョゴリザ、サルトロ・カンリ、ノシャックの初登頂者が参加している。まさに京大全盛時代だったと言えるだろう。
 宇奈月尾根からの縦走を初めて成功させたのは、1957年2月25日~4月14日にかけて大登山をした法政大学だった。極地法、メンバー21名、ヒマラヤ級の物量だった。宇奈月のBCでレーション用に餅をついたとあるから、杵や臼も歩荷したのだろうか。まさに部活動、大学山岳部の黄金時代と言える記録である。
 圧巻は、1961年3月1日~4月5日にかけて宇奈月から縦走した、昭和山岳会の岩田克夫と金子新之のペアである。計画は西穂高までだったというから驚かされる。それもノンサポート、ノンデポだった。常識的に見て成功するはずはない。入山してからはしばらくトリプル歩荷をした。それでも北方稜線を完走し、立山まで縦走して弥陀ヶ原を下ったのだから、恐るべき体力と技術と精神力と言わなければならない。大学山岳部が大人数と極地法で登った山稜を、彼らはたった二人だけでラッセルと歩荷をやりぬいた。
私は、山岳雑誌『岳人』500号特別企画(1989年)として、長文の「積雪期黒部横断研究」を書いた。その中で、京都大学山岳部と昭和山岳会の記録を比較して論評した。同じころに登られた黒部川十字峡横断の記録とこの北方稜線の記録を紹介して、大学山岳部と社会人山岳会の特徴を示したかったからである。

早月尾根から見下ろした富山湾

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