山の日レポート
自然がライフワーク
【連載:西表島と私 その3】青春の彷徨 「ヤマネコの研究を始める」
2022.05.01
「青春のすべてを西表島の研究にかけよう」。
決心に惑いはなかった。しかし、それからが長かった。当時、私は大学の法学部に在籍していた。高校2年の時に父を亡くし、家業の材木店を継ぐためだった。こうして、一時は諦めた研究者への道であるが、西表島との出会いで、よみがえってしまった。私は法学部卒業後、大学をやり直し、改めて生物学を学んだ。
2つ目の大学を出た後、石垣島で教職に就いた。何をするにも、生活の基盤が必要だからだった。ここからなら西表島へ通うことが出来る。しかし、教員の仕事は多忙に尽きる。研究の時間が十分に確保できない。結局、教員生活は1年でやめてしまった。大学院に入って研究に専念することに決めた。
西表島に通い始めてからの一番の関心は島の自然であった。だから、あまり頼りにならない地形図を手に、いつも一人で山の中をさまよい歩いた。自分の足で西表島を知り、多くの人々に接し、西表島全体を知っていく、いわば修行の時代であった。
西表島には人里離れて生活する人たちが結構いた。炭鉱があった時代に坑夫として働き、その後も残った人。戦前、網元に売られて漁師をしていたが、戦後、身寄りがなく島に住み着いた人。人との付き合いがないから、ひどい言語障害に陥っている人もいた。警察をいつも気にする人もいたが、そういう人は定着できず、知らないうちに島から消えていった。それでも、私はいろんな人と話をし、付き合いもした。 多くの人が、損得ぬきで力になってくれたし情報をくれた。本にも載らないし、歴史にも残らない人たちだが、西表島の内の内を、私は彼らから学んだような気がする。
西表島の自然を理解するために、「今年は昆虫、次の年はヘビ類、・・・・」と、動物群ごとに研究をまとめ、それを積み上げていって全体を把握しようと考えた。ところが、そんなことをしていたら一生かかっても満足できる結果は得られないことに気付いた。次々と疑問が派生してくるのである。
そんな時、「生態系の頂点にあるのがイリオモテヤマネコ。ヤマネコの研究を通して、島の全体像が理解できるのではないか」と、思うようになった。この発想の転換までに丸7年がかかった。
ここからは、イリオモテヤマネコに集中して研究を進めた。当時、イリオモテヤマネコは最も調査が難しい動物と言われていた。夜行性、警戒心が強い、数が少ないことが理由だ。しかし、夜行性、警戒心が強いことは他の動物とも共通したことだし、数が少ないと言っても、それは絶対数の話で、島の面積からして少ないかどうかは分からないことだ。ある程度、西表島を知るようになっていた私は、いち早く、イリオモテヤマネコは、むしろ調査しやすい動物だということに気づいていた。哺乳類がとりわけ少ない島で、姿かたち、フンや足跡などのフィールドサインなどを、野ネコと区別さえ出来れば問題ないのである。
山野での調査はまったく苦にならなかった。ダニ、ヒル。沢の水を飲んだり、木登りして方向を定めたり、何でも小さい頃からの経験が役に立った。しかし、私がこだわったのは、誰もやったことのないイリオモテヤマネコの夜間の直接観察だ。 それなのに、20歳を過ぎているというのに、たった一人の夜は何か不安だし怖い。だが、これはどうしても克服しなければ先に進めない課題だった。何が怖いのか。ハブ、サソリ、ムカデ。どれも、積極的に向かってくるものはない。幽霊・魔物、仮にいたとしても、力づくで襲ってくることはないはずだ。怖いのは人だ。しかし、悪意を持って私を狙う人間がいたとしても、山道から外れた闇の森にいる私を探し当てることは、きっと出来ない。そう結論すると、何の不安もなくなり、一人で過ごすことがむしろ楽しくなってきた。
身体が闇に溶け、心が無限大の境地に達することがある。そんな時は絶好調で、真っ暗な静寂の中でも、ヤマネコの到来をピタリと当てることが出来た。
西表島での研究生活は20歳代末まで続いた。世界最初の映画撮影にも成功したし、論文「イリオモテヤマネコの食性と採食行動」で、東京大学から学位(博士号)を授かった。こうして、西表島にかけた私の青春時代も一段落したように思う。
つづく
次回は、西表島の目を引く植物の話です。
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