山の日レポート
自然がライフワーク
【連載:西表島と私 その2】 初めての西表島
2022.04.15
私は、多くの山好きの人と同様、どちらかといえば北方志向だった。生まれが中国大陸の内モンゴルだったからである。成長するにつれて、北への憧れが強くなった。そして、1964年秋、東京オリンピックによる大学の臨時休講を利用して、初めて北海道を旅行した。
北海道は私を存分に魅了した。来年も北海道だ。そう決めて、旅費稼ぎのアルバイトに専念した。ところが、翌1965年3月。「沖縄の西表島で未知のヤマネコ発見」という、生き物好きな私にとって衝撃的なニュースが流れた。「えっ、そんな所がまだあったの?」。
私は急きょ、北海道再訪用の資金を使って西表島へ行くことに決めた。
1965年夏、初めて西表島の土を踏んだ。ちょうど20歳の時だった。この旅で、私は東京から鹿児島までは汽車を利用、急行列車で30時間、鹿児島から沖縄島までは船で一昼夜、さらに石垣島までは宮古島経由の船で一昼夜かかった。石垣島では5泊した。台風で船の欠航が続いたのである。
現在は、羽田空港を朝の一便で発てば、昼前には西表島へ着くことが可能だ。しかし、当時は順調にいっても1週間を要した。私の場合は途中の船待ちの日を含めて、2週間を費やした。確かに西表島は遠かった。距離だけではない。
当時の沖縄はアメリカの施政権下にあり、入域が非常に厳しかった。身分証明書という一種のパスポートの他、種痘の接種が義務付けられていた。また、現地の通貨はアメリカドルだった。
7月15日、いよいよ西表島へ。
「ヤマネコの住む島」、「自然が残るのは西表島だけ」。私の心は最高に昂ぶっていた。久々の便で船は満席。私は他の客から離れ、本船に曳航されるいかだの荷に紛れて島を目指した。
台風の余波で沖はしけ、船は島影から島影へと大きく蛇行しながら進む。いつもなら2時間半で行く西表島東海岸の大原港へ、この日は4時間も要したのである。
大原には数日間滞在した。地元の人の案内で、手漕ぎのボートで仲間川の渓流域まで溯った。近くの山へも入ったし、干潮時のサンゴ礁で魚や宝貝を捕ったりもした。見るもの聞くもの珍しいことばかりである。
沼に足を取られて一向に進めないマングローブ。迷い込んだら出ることも難しいようなジャングル。しかし、そんな所にこそ、いろいろな生き物が生活しているのである。
当時は第二次世界大戦後の入植から20年、まだ移民が続いていた。宮古島、沖縄島北部を中心に、八重山の離島からの開拓者もいた。
何かと不自由な時代で、石垣島からの船は数日に1回、照明は夕方6時から11時までの時間給電で、あとはランプ。
道路も東海岸と西海岸に1本ずつあるだけで、同じ島だというのに、東西を結ぶ道路がなかった。
東海岸だけでは物足らず、「何でも見たい」という衝動に駆られ、私は西海岸も訪ねることにした。途中からは道もなく、ひたすら北の海岸線を歩くのである。滑りやすい岩場、肩まで水に浸かって、ようやく渡渉できる河口や湾もあった。
西海岸の浦内川は渡し舟で渡った。まだ、橋がなかった。祖納でも白浜でも石垣行きの船があれば、それで帰ろうと考えていた。ところが、船は2日先までないという。それではと、やむを得ず南海岸を伝って大原へ戻ることにした。こうして2泊3日、私は海岸線を伝って島一周をしてしまった。一晩は小浜島から出造りに来ていた人の田小屋に泊めてもらい、もう一晩は海岸の岩場でのごろ寝だった。
海岸線伝いに一周してしまった西表島。全島を覆う密林、大自然が人間生活を圧倒し、住民は海岸線のわずかな平地でかろうじて生きている印象だった。
そんな西表島に、私は限りない魅力を感じていた。「一度限りでは分からない。そして、私にとっては知りたいことばかりだ。この島の動物の研究を仕事とし、一生とは言わずとも自分の青春のすべてを懸けてみよう」。その時、私は意外なほどあっさりと決心してしまったように思う。
魅せられたのは、珍しい動植物だけではなかった。西表島滞在中、私は多くの小学生や中学生と海や山で遊んだ。皆、遊びが上手だ。誰もどこへ行っても何も恐れない。「どうして、こんなに逞しいのだろう。こんな子どもたちを育てる西表島には、何か素晴らしいものがあるに違いない」。
初めての滞在はわずか10日ほどだったが、私の人生に何か決定的なものを与えてくれた気がする。 (つづく)
次回は「青春の彷徨(ヤマネコの研究始める)」です。
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