山の日レポート
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『円空の冒険』諸国山岳追跡記(10)【愛知県編Ⅱ】 清水 克宏
2024.12.01
大峯山での長く厳しい修行を終え、延宝4(1676)年、尾張国(愛知県尾張地方)に戻った円空は、同国を埋め尽くすかのように、爆発的な造像活動を展開し、愛知県に伝わる3,200体近い円空像のほとんどがこの時期のものです。傑作・名作の多い尾張の円空像を訪ねつつ、その造像の背景に迫ります。
「日本修行乞食/沙門円空」
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円空が、大峯修行を終え、最初にその行跡が分かるのは、天台宗の古刹、龍泉寺です。寺伝によると、同寺は、平安初期の延暦年間に天台宗の開祖伝教大師最澄が熱田神宮に参籠祈願した折、龍神のお告げを受け、多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀り開基したとされます。徳川家康が名古屋城の築城にあたり、城から見て鬼門の方角にある四つの古刹の観音寺を、鎮護として「尾張四観音」として定めたうちの、東北東の鬼門を護る寺ともされました。同寺には、円空作の馬頭観音像を主尊、天照皇太神、熱田大明神を脇侍とする三尊像と、570体余りの10㎝未満の木端仏が伝わります。
馬頭観音像の背面には、「日本修行乞食/沙門□、「(延宝四)丙(辰)立春大祥日」と円空の筆跡で墨書されます。「沙門」に続く文字は摩耗していますが、他の例からおそらく「日本修行乞食/沙門円空」と記されていたのでしょう。この銘文は、大峯修行を終えた直後の立春の日に、日本全国を乞食修行する決意を表したものと考えられ、まずは尾張国から円空の遊行と、爆発的な造像活動が始まります。
名古屋市の荒子観音寺は、正式には浄海山圓龍院観音寺といい、寺伝によれば、天平元(729)年、白山を開山した泰澄が草創し、同13(741)年、泰澄の弟子の自性が堂宇を整えたとされる天台宗の古刹で、境内の多宝塔は天文5(1536)年建築の名古屋市最古の建造物です。
織田信長の比叡山焼き打ちに絡む火災、前田利家による本堂の再建、太閤検地による寺領没収など、盛衰を繰り返しますが、尾張四観音の西南西の鬼門を護る寺として、初代尾張徳川家藩主徳川義直(1601~1650年)の庇護を受け、寺勢を取り戻します。円空が訪れたのは、二代尾張徳川家藩主徳川光友(1625~1700年)の治世にあたり、同寺に3mを超す巨大な仁王像を造顕しています。
仁王像は、巨大なヒノキ材を使用しており、大量に発生する端材から円空は多くの像を造顕しています。現代彫刻を思わせるような護法神像、おそらく伊勢の金剛証寺の像に影響を受けた雨宝童子、右手に水瓶、左手に小さな竜を載せ、観音か龍神なのか判然としない像、そして儀軌(造像などに際しての基準)通りの愛染明王像など、実に多様な尊像を、多様な表現で造顕しています。円空にとって荒子観音寺は、後半生の造像活動開始に向けての修行の場、あるいは実験室のような場だったのでしょう。
中でも傑作として知られるのが、護法神像(57.5㎝)で、背面には「護法神 イクタヒモタエテモタツル三會テラ 九十六ヲクスヘノヨマモ 圓空 (いくたびも 絶えてもたつる 三會(の)寺 九十六憶 末の世ま(で)も)」という墨書があり、護法に生涯を捧げることを決意した円空の激しい気迫がまっすぐに伝わってきます。
そして、昭和48年には、先代の住職が多宝塔の中で白木の厨子を発見されました。厨子の正面には「南無大悲千面菩薩 鎮民子守之神 観(ママ)喜沙門 四鎮如意野會所 信受護法」、裏面には「是也此之 クサレルウキ々 トリアケテ 子守ノ神ト 我盤成奈里 (これやこの くされるうきき とりあげて 子守の神と 我は成すなり)」という和歌が墨書されており、厨子の中には、和歌の通り、細かい木端に彫られた千体余の千面菩薩がぎっしり納められていました。
円空は、大峯修行を経て、女人も含め一切の人びとが、必ず成仏できるという「皆成仏道」の思想を持つ法華経を重んずる天台の教えに傾倒していきます。この千面菩薩も、そのような教えを表徴したものといえるのではないでしょうか。同寺に伝わる円空曼荼羅ともいえる多種多様な像は1,256体におよび、全国に残るおよそ5,400体の像の実に約23%が同寺に集中していることになります。そして愛知県には、この荒子観音寺の千面菩薩、先にご紹介した龍泉寺の木端仏、そして津島神社(津島市)門前の千体地蔵が残されていることもあり、3200体近くと全国で最も多く円空像が伝わります。
龍泉寺、荒子観音寺での造像を終えた後、円空は尾張を縦横にめぐり、精力的に造像を行います。主な円空像の伝わる寺社等を、時代の近い元禄尾張絵図にプロットしたのが図1で、廃仏毀釈、第二次世界大戦の空襲、伊勢湾台風などを経てもなお、尾張を埋め尽くすように円空像が残ることが分かります。
その中で特に大規模な造像としては、庄中観音堂(尾張旭市)の聖観音像をはじめとする諸像、音楽寺の薬師三尊および十二神将と護法神などがあります。庄中観音堂で特徴的なのは、観音菩薩像が、阿弥陀如来像の脇侍ではなく、主尊となっており、その脇侍を不動明王、毘沙門天としていることです。この独特な三尊形式は、比叡山延暦寺で成立し、以後天台宗の寺院で造立されたものです。
愛知県に残る円空像を尊像別にみると、千体仏を除外すれば、観音菩薩像が約32%と圧倒的に多く、中でも特徴的なのは、蓮の蕾を手にした観音像が多いことです。観音の持つ蕾の蓮は、「未開敷蓮華(みかいふれんげ)」と呼ばれ、悟りを約束されながらも菩薩として、人びとの救いのために働く姿をあらわしたものとされます。それでは、円空はなぜ、多くの観音像を尾張に残したのでしょう?
ここで、円空が尾張で活発に造像した延宝4(1676)年前後の尾張の情勢に目を向けてみると、当時は寛文年間(1661~1673年)に幕府が諸藩に命じた寺請制度が徹底された時期にあたります。同制度は、幕府が隠れキリシタンを摘発するために設けたもので、領民をすべて檀那寺に所属させ、檀那寺にその人間がキリシタンでないことを証明させる制度です。ただし、人びとからすれば、所属させられた寺院と、生活における願いや祈りに、ギャップがある場合も多かったのではないでしょうか。
さらに、第二代藩主光友の時代、尾張藩では、「濃尾崩れ」と呼ばれ、大規模なキリシタンの摘発・処刑がありました。当初光友は摘発には消極的でしたが、寛文元年に、美濃国可児郡内に領地を持つ旗本が、領地でキリシタンが露見したことを尾張藩に報告し、その捕縛を依頼したことに端を発し、幕府が直接介入しながら尾張領内の徹底的な穿鑿(せんさく)・摘発が進められ、寛文9年までに千人以上のキリシタンが処刑・根絶させられました。領内には、不穏な空気が満ちていたことでしょう。
そんな時勢の中、円空の造る観音菩薩像は、本堂の脇壇や、小堂などで、あらゆる願いを受け止め、聞き届けてくれる仏さま、荒んだ心を癒す仏さまとして、人びとに身近に寄り添う存在だったのではないでしょうか。尾張の円空の観音さまは、いずれもひときわ優しい微笑みをたたえています。
<参考文献> 小島梯次氏著『荒子観音寺の円空仏』(行動と文化研究会)
H.チーリスク監修、太田淑子編『キリシタン』(東京堂出版)
<注> ➀画像は、所有者の許可のもとに使用させていただいており、二次使用は固く禁じます。
➁荒子観音寺の円空仏拝観日は、毎月第二土曜日 午後1時~4時に限られます。
(次回は、2025年2月1日埼玉県編を掲載予定です)
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