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山の日レポート

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自然がライフワーク

『円空の冒険』諸国山岳追跡記(6) 【愛知県編Ⅰ】 清水 克宏

2024.08.01

全国山の日協議会

尾張藩重臣らと円空

 山岳修験僧円空は、蝦夷と呼ばれた北海道への遠い旅から、寛文7(1667)年には美濃・尾張に帰還し、おそらく戸隠での修行を挟んでいるためか、それからしばらくは、比較的小振りでやや生硬な印象の像をいくつか残すばかりとなります。それが、寛文9(1669)年、尾張国(愛知県)の鉈薬師に17体もの大群像を製作、一気に創造力が花開き、前期の集大成ともいうべき寛文11年頃の岐阜県羽島市の中観音堂の諸像へと展開します。
 この一大転機の諸像を追いかけていくと、意外にも円空と尾張藩重臣らとの関わりが浮かび上がってきました。

尾張藩との関わりのはじまり

 円空は、寛永9(1632)年、現在の岐阜県美濃地方にあたる美濃国に生まれています。しかし、円空像が最も多く残る都道府県は、お隣の愛知県の約3,200体で、2位岐阜県の約1,650体を大きく上回り、とりわけ尾張徳川家が治めた西半分の旧尾張藩領に集中しています。これは、千体仏と呼ばれる小像群が尾張四観音の荒子観音寺および龍泉寺に、千体地蔵が津島地蔵堂に、それぞれ伝わるためですが、円空が同藩で大規模な造像活動を行っていたことを、裏付けてもいます。
 また、東西日本の境界に位置する美濃国は、政治や交通の要所であったことから、徳川幕府は、分断統治する政策を取り、長良川や木曾川沿いなどの産業や交通の要所を尾張藩に治めさせました。そのため同藩は、美濃国内に290カ村、13万石以上を領有する最大の領主でもありました。
 伊吹山を拠点に山岳修行に励んでいた円空と尾張藩との関わりは、蝦夷に渡る以前には確認されていません。そのはじまりは、おそらく寛文9年、張振甫が建立した薬師堂に円空が本尊以外の諸像を造顕した時点からと考えられます。この薬師堂は、円空の大胆な彫りの諸像から、「鉈薬師(別称医王堂)」と呼ばれています。

画像1-1:(左)鉈薬師。明治40年代に現位置に再建されたものだが、中国風な佇まいを伝える     画像1-2:十二神将申像(千種区婦人郷土史研究会著『千種区の歴史』より)

 張振甫は、元和7(1621)年に、明国より日本に亡命した帰化人で、その出自は明王の食医であったとも、また王侯の准王常清であったともいわれます。長崎から京都に移り医者を開業し、食中毒の治療などが評判となり、初代尾張藩主徳川義直がこれを保護し、侍医同様の待遇を与えました。その名医ぶりには数々の逸話が残されています。寛文5年、振甫は息子に跡を継がせ隠居しますが、同7年、二代藩主光友に再度招かれ、上野村(現名古屋市千種区)の、家老間宮大隅守の下屋敷だった広大な土地を与えられていますから、家老待遇で招聘されていることが伺われます。振甫は、同地に聖徳太子作との伝承のある古い薬師如来像を本尊として遷座し、薬師堂を建立します。これは、当時幕府が新建寺院の建立を法令で禁止していたため、再建という形で薬師堂を建てたもので、実際には、円空に本尊以外の脇侍の日光・月光菩薩立像、阿弥陀如来・観音菩薩坐像、十二神将像および合掌像と、ほとんどが1mを超す17体もの群像を、新たに造らせています。
 そのうち、十二神将の午像に改印が確認されており、これらの像には尾張藩が領有する木曾の貴重なヒノキの官材が使用されていることが分かっています。円空が群像を製作することは、これが初めてにもかかわらず、いきなりこれほどの大作を任されたのですから、張振甫と円空には、よほど深い相互理解があったのでしょう。振甫は人びとを広く療治できなくなるからと、藩医になることを断った人物であり、円空は薬草で知られる伊吹山で修行を積み、その知識を持ち合わせていたはずです。さまざまな人々の辛苦を目の当たりにしてきた点も共通します。
 貴重な官材を最大限に活かすため、十二神将像は、断ち割られた材の形状や切断面に大きく手を加えず、それらの材の制約をむしろ創造の力に変え、驚くほど大胆に造形しています。円空は、20世紀初頭にはじまるキュビズムなど現代美術の先鋭的なアプローチを、250年ほども先取りして単独格闘したともいえ、これは造像における「大冒険」といえます。そんな冒険的造形においては、プロデューサーとしての張振甫の役割も大きかったことでしょう。

円空と尾張藩重臣らとの関わり

 鉈薬師の像と同様、貴重なヒノキ材を使用した円空像が他にもあります。そのひとつが、渥美半島の田原市にある栖了院の不動明王坐像および釈迦如来坐像です。特に不動明王像は、円空の制作した最も早い時期のものになりますが、材を断ち割った跡をそのまま活かす点などが、鉈薬師の十二神将像などに通じます。栖了院は、間宮家の菩提寺で、円空の像はもともと歴代尾張藩に仕えた間宮家に伝わったものです。張振甫が薬師堂を建てたのは、前年の寛文8年に亡くなった尾張藩家老間宮大隅守の下屋敷だった土地なので、円空は鉈薬師の造顕をきっかけに、間宮家とも縁を結んだのでしょう。

画像2:田原市栖了院 不動明王坐像

 また、岐阜県美濃地方に良質のヒノキ材を使った像高70~90㎝台の大型の坐像が3体伝わります。画像3-1は、岐阜市中屋薬師寺の薬師如来坐像、3-2は大垣市上石津町一ノ瀬天喜寺の薬師如来坐像、3-3は、羽島市長間薬師寺の如来坐像です。いずれも良質のヒノキの角材を最大限活かすように、坐像の下に極端に長い裳を垂らしているところが共通します。これら3体の像は、鉈薬師の諸像や、栖了院の像と共通する様式であり、寛文9年に近い時期に造顕されたと考えられます。3体の像がいずれも美濃国内の尾張藩領に伝わることから、今回現地調査や文献で詳しく調べてみたところ、所在地がいずれも同藩家老を何代にもわたって務めた石川(いしこ:三代目からは石河)家ゆかりの土地であることが分かりました。

(左から)画像3-1:岐阜市中屋薬師寺 薬師如来坐像、画像3-2:大垣市上石津町一ノ瀬天喜寺 薬師如来坐像、画像3-3:羽島市長間薬師寺 如来坐像

 石川家の初代当主光忠(文禄3(1594)年~寛永5(1628)年)は、関ケ原の戦いで西軍に着いたため改易された父石川光元の死後、母が徳川家康の側室となり、後に尾張藩初代藩主となる徳川義直を産んだので、義直の異父兄弟にあたります。家康の命で義直の附家老(幕府が親藩に指示して置かせた藩主の目付役としての家老)として、名古屋城代を務めました。その知行地は美濃国数十箇所に点在し、最初の在所(支配地における拠点)は、山県郡植野村(現関市植野、中屋に隣接し、いずれも石川家が知行)で、その後海津郡一之瀬(現大垣市上石津町一之瀬)に移しています。そして、家督を継いだ嫡子の尾張藩家老の正光は、寛文9(1669)年、在所を名古屋に近い中島郡駒塚(現羽島市竹鼻町駒塚)に移し、駒塚陣屋を築いています。駒塚は中観音堂のある同郡中村と近接しますから、円空が寛文11年頃に中観音堂を創建するにあたり、知行主の正光と良好な関係を築くことは不可欠だったはずで、おそらく円空は正光のために貴重な官材を活かしてこれら3像を造ったのではないでしょうか。

画像4:『細見美濃絵図』のうち美濃国中島郡周辺部分。地名が橙色に塗られたものが尾張藩領。 長間薬師寺、駒塚陣屋、中観音堂は、いずれも近接している

 鉈薬師像の特徴として、貴重な官材を使用していることとともに、阿弥陀如来坐像と日光菩薩立像の背中に内刳りをして像内納入品を納めていることがあります。小島梯次氏の調査によれば、像内納入品のある円空像は、寛文9(1669)年の鉈薬師を皮切りに、延宝2(1674)年頃までの約5年間の14例に限られるそうです(小島梯次氏著『円空・人』)。実際にこれらの像を拝すると、いずれもひときわ入念に造られた像であることに気付かされます。
 愛知県犬山市妙感寺および岐阜県多治見市普賢寺の観音菩薩坐像(画像5-1、5-2)もその例で、妙感寺は尾張藩附家老で犬山城主の成瀬家が庇護した寺で、普賢寺は中島郡江吉良(羽島市江吉良町)の領主旗本林丹波守の菩提寺です。丁寧で、やや硬い表現は、改まって造られた像であることを物語ります。
 このように、新建寺院の建立が禁止されている時勢のもとで、円空は尾張藩重臣らと関わりを築きつつ、中観音堂の創建をめざしていったのでしょう。

(左から)画像5-1:妙感寺(愛知県犬山市)観音菩薩坐像、5-2:普賢寺(岐阜県多治見市)観音菩薩坐像

円空と尾張藩との関わりのきっかけは?

 それにしても、寛文7年頃に蝦夷から戻ったばかりの一介の山岳修験僧にすぎない円空が、寛文9年になって張振甫をはじめ尾張藩の重臣らと関わりを持ったのは唐突な感じがしてしまいますが、そのきっかけはどこにあったのでしょうか。
 おそらくそれは、同年の6月に勃発した、松前藩の支配と収奪を背景にした首長シャクシャインに率いられたアイヌの蜂起:シャクシャインの戦いが関わるのではないかと思うのです。
 当時、蝦夷のことは松前藩に任せていた幕府は、アイヌが蜂起するに至った状況を把握できておらず、何が起こったかを確かめるため、弘前藩や盛岡藩に密偵を出させています(その弘前藩側の記録が『津軽一統志』巻第十として残ります)。徳川御三家筆頭の尾張藩でも、このような動向の中で、蝦夷から帰還して間もない円空に対し、聞き取りをした可能性が高いはずです。そして、円空と張振甫が出会い、鉈薬師の諸像が造られ、さらに尾張藩重臣らとの関わりへと広がっていったのでしょう。

<注> 画像の二次使用は固く禁じます。

(次回は9月1日岐阜県美濃地方編1を掲載予定です)

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