山の日レポート
通信員レポート「おきなわ」
沖縄クライミングシリーズ 2 沖縄クライミングの歴史
2023.03.15
比嘉正之さんが沖縄クライミングの歴史を紹介してくれました。
沖縄各地の岩場の歴史に興味が湧きます。
沖縄クライミングシリーズが、日本各地の地元でのクライミング活動の紹介につながってゆくと楽しいですね。
うるま市勝連浜比嘉島シルミチュー(拝所)の高さ10mほどの凸凹が少ない前傾壁を神がかり(ゾーンに入った?)の人物が登ったという伝説や与那国島トゥンガン(立神岩 高さ約20m)にふたりの青年が海鳥の卵を採るために上ったものの下降の際ひとりは墜死、もうひとりは神に祈ると(ゾーンに入った?)いつのまにか地上にいたなどという昔話があり、また筆者が具志頭浜でボルダリングをしていると「盆栽木採取のために指が入るところならどこでも登った」と老人に話しかけられたことがあります。
昔の人はクライミングという意識がなく普通に生活で登っていたでしょう。義賊ウンタマギルーが反り返る首里城城壁を登ったというのは沖縄芝居だけかもしれませんが、似たようなことは城建築の高所作業などでやったでしょう。
沖縄戦の映画「ハクソーリッジ」で見ることができますが、浦添市前田高地などでは米軍がロープや縄梯子を使い戦闘を行いました。また、国頭村辺戸安須森では消防署員が懸垂下降の訓練をしたことがあるらしいです。
娯楽スポーツとしては、終戦後に真栄田岬の米軍保養所で米兵がクライミングをやりました。真栄田岬の岩壁には時代のわからない古い細いボルトがあります。1970年ごろには琉球大学の学生が南城市の石切り場でロープを使って岩登りの練習をしていたという伝聞があります。
ハードフリークライミングを始めたのは米軍人のRandy Davidです。1990年ごろ国頭村の座津武(ざつん)にボルトルートを数本開拓し、比嘉義弘ら沖縄山岳会のメンバーが地元紙に参加者募集の記事を掲載しクライミングするようになりました。
具志頭浜のボルダー群は1994年ごろから琉球大学ワンダーフォーゲル部などにより登られており、小沢幸雄や杉野保らが高難度課題を初登し、山岳雑誌「岩と雪」で紹介されました。ボルダリングについてはその後沖縄島、宮古島、石垣島など各地で魅力的なエリアが次々と発見されます。
加藤道浩や金城博らによるフリークライマーズ沖縄は座津武や付近のパーティーロック(旧称ゴジラ岩)やウテンダにルートを開拓し、1998年ごろからは辺戸宇佐浜に約30本ビッグエリアを開拓して沖縄のスポーツクライミングルートが全国的に有名になります。
1999年には沖縄初のクライミングジム「やまあっちゃー(筆者経営2018年閉店)」が沖縄市に開業し沖縄クライマーの拠点となりました。その後県内では民間クライミングジムがのべ11店舗生まれては消えながらもクライマーのレベルを上げ、ジュニア選手育成に尽力しております。
2000年ごろには米軍歯科医Steven Curtisらが真栄田岬に10数本(恩納村がリボルトを認めないものの登攀禁止ではなくナチュプロやラペルダウンしての登り返しが可能です)残波岬に10数本(昨年ボルターズ沖縄によりチタニウム合金のリボルト)ルートを開拓しました。
名護市勝山の岩場では2007年ごろから勝山区の手厚い支援を受けて廣川健太郎、福原信一郎、福原俊江、Barbara Treadway、Emmanuel Lacosteらにより亜熱帯の深い森の中に約70本のルートが大規模に開拓されました。
国体山岳競技としては1999年に九州ブロック大会が沖縄県山岳連盟により準備され、自然岩壁である座津武北壁のスラブルートで実施されました。出だしが悪い5.9のルートですが順位はちゃんとついたらしいです。次にブロック大会が回ってきたときには人がいない(?)施設がない(?)理由で開催県を返上しました。しかし2012年には新設された那覇市奥武山公園のクライミング施設で2度目の九州ブロック沖縄大会を行ないました。これまで国体に参加してきた選手らの中で、沖縄からは永田乃由季、松田喜々らが日本代表級の選手となっております。
現在特記すべき活動は、細川浩ら沖縄山岳会による那覇市奥武山公園クライミング施設における毎週木曜日のリード講習会です。また、大宜見朝太、相澤常滋, Bo Buckley, Tim Larickらボルターズ沖縄によるリボルト作業や新エリア開拓はまことに目覚ましいものがあります。
(文中敬称略)
参考資料:
小沢幸雄 GUSHICHAN
加藤道浩 ぶり
Emmanuel Lacoste OKI guide
Brent Goddard Okinawa Climbing Guide Mt Katsuu
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