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山の日を知ろう

山の日を知ろう

演歌の大御所船村徹先生と「山の日」

2021.05.27

全国山の日協議会

船村徹先生との最初の出会いは、2002年(平成14年)に、私が脱サラをして東京から塩谷町に移住してすぐの頃であった。ご縁があって「船村徹ふるさと会」に入会させて頂き、先生の酒席にお招きに預かり、直接先生の謦咳に接する機会をしばしば頂戴した。

2011.1.22 船村徹先生との新春懇談(塩谷町、漁楽荘)会

当時から栃木弁(塩谷弁)での語り口は、豪放磊落で自然への敬愛と人への愛に溢れた「臨場感」溢れる話しっぷりであった。(但し当初は時々判別できない言葉も・・・) お母様からいつも「でれすけ」と呼ばれ、叱咤激励されながら、船生村(塩谷町船生)の自然を、弱い者をかばいつつガキ大将として走りまわっていたこと、東洋音楽学校での生涯の友、早世された髙野公男さんと出会って「『俺は茨城弁で作詞するから、お前は栃木弁で作曲しろ』という言葉が、高僧の教えの様にいつも自分を導いてくれる」と語られたこと、ロンドンのオーディション会場で意見を求められた時「あの隅っこに居る、汚らしい4人組が良いのでは・・・」と答え、それがなんと後の『ビートルズ』で「『ビートルズ』を発掘したのは俺だ」と自慢げに語られていたことなど、多くの印象深いお話しを伺った。

2013.6.2「『山の日』をつくろう!栃木集会」

小学校時代からの先生の終生の友「船村徹ふるさと会」谷畑方夫会長によれば、船村徹先生は、子供の頃から「美的感性」が優れており、村の背後にそびえ、遊びの舞台となっていた高原山など、自然への愛と畏敬の念が非常に強い方だったと述べられている。そして「子供の頃に感性を磨くことの大切さ」を主張されており、幼いうちから山や自然と親しむことの大切さを強調されていたとのことであった。

2013.6.2「『山の日』をつくろう!栃木集会」

そんな船村先生は常日頃から「『海の日』があるのだから『山の日』も作ろう、『海があんのに山がねえ~』、山・川・海がつながって豊かな風土と産業が育ち、日本人の自然への感性も磨かれる。山と川と海は一体のものだ」と語られ、2008年9月に地元の下野新聞に『「山の日」をつくろう』との論説を寄稿し、『太古から信仰的にも実生活的にも人類にとっては「山海一体」であった(中略)今こそ日本国民が心をひとつにまとめて、「山の日」をつくり、国民の祝日とさだめ、おおいに、「山海の友情」を厚くしようではないか」と、「山の日」の祝日化を強く訴えられたのも当然のことと言えよう。

昭和名水百選、尚仁沢湧水 

かつて船村先生が弊店「風だより」にお越しになり、手打ちソバを召し上がられた折の写真が掲示されているが、写真の先生はソバをほおばりながら「『山の日』を大切にし、日本の皆が自然に親しみ、自然に感謝する心を持ち続けて欲しい」と語られているように感じている。

次は「川の日」も・・・などと冥途で考えられているかもしれないと思うのは、私の考え過ぎだろうか?

手打ちそばを召し上がる船村徹先生

全国山の日協議会会員
「船村徹ふるさと会」会員
水野雅章(栃木県塩谷町在住)

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