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山の日レポート

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立山信仰の世界へようこそ!【連載3】大日岳と剱岳で発見された、平安時代の錫杖頭

2025.11.03

全国山の日協議会

 みなさん、こんにちは。富山県[立山博物館]館長の高野です。

 前回は、奈良時代のタチヤマが神の山として、遙拝信仰されたというお話をしました。今回は平安時代の立山を見ていきましょう。

(1)雄山神の登場

 平安時代になると、立山の神は、国家を守護する神として国家体制にとりこまれていきます。平安時代の史料である『日本三代実録』の貞観5年(863年)の条に、「授越中国正五位下雄山神」して、立山の神の名がはじめて文献上に登場します。また、延長5年(927年)に完成した『延喜式』巻十には、新川郡にある7つの神社が記され、そのなかに「雄山」(読み:オヤマ)神社が出てきます。このように平安時代には、立山の神に対して位が授けられ、国家の神として信仰されていくようになります。ただし、現在、立山の神をまつる神社は雄山神社ですが、平安時代の雄山神社が現在と同じ場所にあったかどうかは不明です。

(2)大日岳発見の錫杖頭

 他方で、立山に仏教的な色彩が加わり、修行の場になったのも平安時代と考えられています。
 明治26年(1893年)7月、大日岳で平安時代後期のものとみられる錫杖頭(しゃくじょうとう)が発見されました。発見者は民間人の河合磯太郎氏。温泉探索のために道案内人の土肥平作ら3名とともに大日岳に登った際に発見したと木箱と包布に記されています。錫杖とは、山々で道なき道をたどって修行する、山岳行者が用いる法具です。杖として使う、打ち鳴らして熊よけにするなどの機能がありますが、それだけでなく宗教的な機能もありました。先端には金属(主に銅)が付いており、それを錫杖頭と呼びます。
 この「銅錫杖頭(双竜飾、富山県大日岳発見)」は、昭和38年(1963年)国の重要文化財に指定されています。輪はややふくらみ、中央に柔らかく蔓状に巻き込み、その先に宝珠を冠した竜頭を飾るのが大きな特徴です。

山岳行者(人形)と錫杖

弥陀ヶ原から見た大日岳

銅錫杖頭(双竜飾、富山県大日岳発見) 富山県[立山博物館]蔵

(3)剱岳発見の錫杖頭と鉄剣

 明治40年(1907年)7月、陸軍参謀本部・陸地測量部・測量手の柴崎芳太郎氏は、人跡未踏とされていた剱岳の山頂をきわめ、その際、錫杖頭と鉄剣を発見しました。このことは新田次郎氏の小説『劔岳・点の記』、木村大作監督による映画化などで一般的に知られるようになりました。
 この「銅錫杖頭附鉄剣(剱岳発見)」は、平安時代初期のものとみられ、昭和34年(1959年)国の重要文化財に指定されています。輪はうちわ状で、輪の下部は内側に巻き込む蕨手形(わらびてがた)で、全体的に力強い印象をうけます。昭和57年(1982年)柴崎家のご厚意で富山県に寄贈されたものです。
 これら大日岳と剱岳で発見された錫杖頭は、わが国の霊山信仰の過程を解き明かすうえでの代表的な遺物といえるでしょう。

別山山頂から見た剱岳

銅錫杖頭附鉄剣(剱岳発見) 富山県[立山博物館]蔵

(4)平安時代の錫杖頭が意味するものとは?

 発見された錫杖頭から、剱岳や大日岳が山岳行者の活動域であったことがうかがえるでしょう。山岳行者が山頂において何らかの祭りをしていたとすれば、祭りに関係する他の遺物も発見されるのですが、そのような遺物は見つかっていません。つまり、錫杖頭だけが発見されているのです。それはなぜでしょうか?
 錫杖は、天から山頂にカミを降ろす法具でもあり、「結界」(聖なる場所と俗なる場所を区別)のために用いられることがありました。山は、そのままでは仏教の思考に基づく修行の対象になりえません。山岳行者によって「結界」されてはじめて修行の場となりえるのです。とすれば、剱岳と大日岳の錫杖(鉄剣を含む)は、神仏が降臨する聖なる山として「結界」するために、山に奉納された可能性が高いと考えられるのです。
 次回は、立山に伝わる「立山開山縁起」をご紹介します。引き続き、連載にお付き合いいただければ幸いです。

◎立山博物館展示館では、剱岳と大日岳で発見された「銅錫杖頭」(重要文化財)の実物を常設展示しています。立山の山岳信仰のなりたちを物語る、約1300年前の貴重な資料です。ぜひ実物をその目でご覧ください!

雄山の途中から見た大日連山

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