山の日レポート
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『円空の冒険』諸国山岳追跡記(2)【青森県編】
2024.04.01
追跡記(1)「北海道編」では、山岳修験僧円空の、当時蝦夷と呼ばれていた北海道での寛文6(1666)年を中心とした先覚的冒険者ともいえる活動をレポートしました。今回は、その往来に滞在した、当時日本海側は弘前藩、太平洋側は盛岡藩が治めていた青森県での円空の足取りを追いかけます。
青森県での円空の動向については、弘前藩の正式な記録である『弘前藩庁日記』の寛文6年1月部分に、「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」という記述があることが知られます。従来この記述は、旅の僧円空が、弘前城下の長町に滞在していたのを、役人などに怪しまれ、城下から追い払われたように受け止められてきました。しかし、同日記を通読すると、そこに特別な事情があったことが浮かび上がります。
当時江戸幕府は、島原の乱以降進めていた宗教統制をさらに強化し、寛文4年に諸藩に宗門改役を設置させています。同日記も、寛文5年の年明けから、藩内で徹底的な切支丹穿鑿(せんさく)を行った記述で埋め尽くされており、国境の碇ヶ関や、年貢米を上方で販売するため夏を中心に運航されていた「敦賀廻り御船」などによる入国も厳しく統制されていた状況が伺われ、例えば碇ヶ関で怪しい山伏が追い返されたことなども逐一記録されています。円空に関してはこのような記録はなく、松前藩に向かうため、近江商人の仲介で、この「敦賀廻り御船」あるいはこれを補助する傭船を利用し、寛文5年夏頃には問題なく入国したとみられます。そして、蝦夷松前藩側でも、同年には日本海側に11箇所も堂舎を建て、円空を迎え神体を造顕させる準備を進めていたことが、同藩の史料を集大成した『福山秘府』の「諸社年譜並境内堂社部」から伺われます。
それにもかかわらず、円空が翌年まで半年あまりも青森県内に逗留を余儀なくさせられたのは、7月5日に松前藩第4代藩主松前高広が23歳の若さで突然亡くなり、第5代藩主矩広が家老と共に将軍謁見のため家老と共に江戸に向かうという予期せぬ事態で足止めを食らったためと考えられます。
円空は、この足止めの期間を無駄にせず、同地の豊富なヒバ材を使って造像修行に励んだようで、左右の足を別々の蓮台に乗せる踏割蓮台という独特な形式の台座に立つ等身大を越す十一面観音像を、試行錯誤しながら弘前藩領の弘前城下、田舎館村、そして盛岡藩領だった下北半島の恐山および佐井村と計4体残しています。さらに、蝦夷松前藩に渡って1体、様式的にみて帰還時と考えられる像を弘前城下に1体、そして久保田藩領(秋田県)に4体残しています。
この様式の十一面観音像の完成形といえるのが、旅から帰還後、出生の地と推定される美濃の中観音堂(現岐阜県羽島市)に納めた像で、そこに至る様式の変遷を追うことで、円空の足取りが推定できます。さらに、円空は帰還時には、蝦夷で造顕した像につながる様式の観音や如来の坐像も残していますので、これらを合わせると、円空の青森県内の足取りをおおよそつかむことができます(画像3、表1)。
その中でも、山岳に関わる部分として着目されるのが、円空作の十一面観音立像と観音半跏像が伝わる当時は焼山と呼ばれていた恐山での活動です。
恐山というと、現在は「死ねばお山(恐山)さ行く」といわれるように死者の魂が行き着く霊場として知られます。恐山信仰の始まりは明らかではなく、伝説や縁起によれば、9世紀に第3代天台座主円仁が開いたとされるものの、その後荒廃し、16世紀中期に曹洞宗の円通寺(むつ市田名部)を開山した僧宏智聚覚が再興したとされ、同寺は恐山菩提寺の本坊となっています。しかし、17世紀以前の信頼できる史料は確認されておらず、最初期の資料は、明歴3(1657)年7月9日の棟札の写しで、恐山山地の最高峰である釜臥山(878m)の本地である釈迦如来像を円通寺に祀り、その堂宇を修築した記録となります。円空が当時焼山と呼ばれていた恐山を訪れたのは、蝦夷に渡る前の寛文5(1665)年と推定されるので、まだ同山が霊場として整備されていく途上だったと考えられます。
円空の下北半島での活動は、熊谷源無『万人堂縁起』(寛文8(1668)年)や、寺島良安『和漢三才図絵』(正徳2(1712)年)、菅江真澄の『牧の冬枯れ』(寛政4(1792)年)などで知られます。しかし、それらには、現在恐山菩提寺に伝わる十一面観音立像と観音半跏像のことは出てこず、謎になっていました。
今回、さらに文献調査を進めたところ、2021年に出された佐藤良宜・小山隆秀両氏による『恐山史料の再発見』(『青森県立郷土館研究紀要』第46号)という論文に、約60年間行方不明になっていた恐山関係文書のひとつである、『恐山境内案内演説』(寛政10(1798)年)という、境内を案内する口上書を見出しました。同文献によれば、本尊を祀る地蔵堂において、「本尊慈覚円仁大師の御作」の地蔵菩薩、「恵心僧都の御作」の随身仏を紹介した後、「此仏ハ円空上人の御作十一面観音菩薩也、別円空の御作ハ近ハ松前臼ヶ岳の本尊、津軽ハ三馬屋の御観音御兄弟(中略)これなるハ同しく円空の御作寿命観世音」と案内されていたことが分かります。つまり、円空が訪れた130年あまり後の寛政年間、恐山では慈覚大師円仁や、恵心僧都源信と並んで、円空の名が喧伝されていたわけです。
円空来訪の数年後に記された『万人堂縁起』では、円空のことを単に「国邑足跡の沙門円空」としていますし、前述のとおり当時焼山と呼ばれていた恐山は、まだ霊場として整備される途上でした。このことから伺われるのは、円空が有名な霊場である恐山に行ったのではなく、国内廻船の隆盛とともに、恐山が全国から信者を集める霊場とへと発展していくのに、円空が造像を介して一役買ったというのが実情に近いということです。
このようなめざましい造像活動を行った円空が、なぜ『弘前藩庁日記』にあるように、「御國二指置申間敷由仰出候」として厳寒期の弘前城下を追われたのでしょう。
このくだりのポイントは「仰出(おおせいだす:お命じになる)」と敬語が使われていることで、同日記では、藩主津軽信政および他藩の藩主クラス以外、家老にさえ敬語は使われていません。つまり、領内に差し置くわけにはいかないと命じたのは、藩主信政当人だった可能性が高いのです。
当時恐山のある下北半島は、南部氏の統治する盛岡藩領で、津軽藩は盛岡藩から独立した経緯から、両藩の関係は良好とはいえませんでした。さらに先々代の弘前藩2代藩主津軽信枚はキリシタン大名でもありました。すなわち、宗門改めの行われていた最中、盛岡藩領を往来するなど不穏な動きをしている円空が弘前城下にいることを藩主信政が良しとせず、松前藩の御用ならば湊町青森へ、と退去を命じた可能性が高いと考えられるのです。
一方、松前藩からの帰還時には、当時の松前藩の参勤交代ルートであった松前街道および羽州街道沿いに、蝦夷で造顕した像につながる様式の観音や如来の坐像が残され、「シーハイルの歌」で知られる梵珠山の山上でも、円空は釈迦如来坐像を造っています。(図1)
おそらく円空の蝦夷での活躍は弘前藩内でも知られるところとなり、円空は造像の要請に応えながら支障なく碇ヶ関を越え、現在の秋田県にあたる久保田藩領へ向かったのでしょう。
(次回は5月1日掲載)
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