山の日レポート
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『円空の冒険』諸国山岳追跡記(1)【北海道編】
2024.03.01
美濃国生まれの江戸前期の山岳修行僧円空は、生涯12万体ともいわれる造像活動で知られますが、山岳修行においても卓越した存在で、伊吹山をはじめ大峰山脈、日光連山、そして当時「絵図」と呼ばれていた地図では空白地帯だった飛騨山脈などで幅広く活躍しました。
円空の像は、現在約5300体確認されていますが、その分布をみると愛知県(約3200体)、岐阜県(約1700体)、埼玉県(約170体)に次いで4番目に多いのが、意外にも北海道で、道外からの移入像をのぞいても現時点で42体もの像が確認できます。特に注目されるのは、そのうち10体の像の背銘(背中の銘文)に山岳名が記されていることで、山を愛する者として関心のそそられるところです。昨夏3回、計14日かけ、当時蝦夷と呼ばれた北海道での円空の足取りを踏査してきましたので、レポートします。
円空が蝦夷を訪れたのは、背銘に「うすおく乃いん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空」と記された現在有珠善光寺(北海道伊達市)に所蔵される観音坐像をはじめ、寛文6(1666)年の年号を持つ像が3体あることから、同年が中心だったことが分かっています。円空の造像活動は、寛文3(1663)年11月、岐阜県郡上市美並町根村神明神社の神体3体に始まり、それから元禄5(1692)年までの約30年間に及びますから、造像を始めてまだ間もない頃に蝦夷に渡ったことが分かります。その時円空は35歳でした。
円空が当時蝦夷と呼ばれた北海道を訪れた理由については、民俗学者五来重氏の「遊行のため」とする説が広く知られます。しかし、同氏が拠りどころとされている遊行僧に係る文献類は、18世紀初頭になり商人に交易を代行させる「場所請負制」に移行してからの時期のもので、円空が訪れた当時は、以下のように、遊行などできる状況にはありませんでした。
当時の蝦夷は、渡島半島の最南端に津軽海峡に面して和人の住む松前藩があったほかは、アイヌの住む蝦夷地として、上級家臣らが交易の拠点となる「商場」を年1回訪れる以外、和人の往来は厳しく制限され、地理的な把握はほとんどされておらず、幕府が諸藩に提出させた国絵図をもとに作成した正保日本図(正保元(1644)年)をみると、蝦夷地部分は極端に小さく、また形状も実際とはかけ離れて描かれています。
しかも、松前藩の全60巻に及ぶ史料集『福山秘府』の「年歴部」などによると、寛永17(1640)年に有史以来鎮静化していた内浦山が大噴火して山体崩壊に伴う山津波で700名に及ぶ犠牲者を出し、寛文3(1663)年には有珠山も有史以来の大噴火を起こすなど、蝦夷は大地動乱の時代に入っています。さらに寛文5(1665)年春には、当時不吉の兆しとされた彗星が現れ、松前藩日本海側の上ノ国太平山(大平山)が鳴動して天河(天の川)の河口部が陸になってしまい、「按、是皆不祥之兆也」と、さらなる災禍におののく状況にありました。
『福山秘府』の藩内の寺社を調査した「諸社年譜並境内堂社部」には、まさにこの寛文5年、日本海側の11箇所に新たに堂が建造され、これらを含む15の堂に「神体円空作」の像が置かれたことが記録されています。今回同資料に基づきMTBを使って日本海沿いの旧松前藩の全集落を巡りましたが、「郵便局のある集落に円空像あり」というほど、まんべんなく円空像が置かれ、江州(近江国)伊吹山で修行を積んだ山岳修験僧円空は、山を鎮める祈りを込めて村々に神体像を造顕することを請われ、松前藩を訪れたのだと考えられます。その仲介にあたったのは、おそらく当時松前藩のアイヌの交易品を一手に引き受けていた近江商人でしょう。
一方、円空が松前藩領を越え、アイヌの住む土地「蝦夷地」を訪れたことは、残された円空像とともに、菅江真澄の『蝦夷廼手布利』(寛政3(1791)年)、最上徳内の『東夷地道中日記』(同年)、松田伝十郎の『北夷談』(寛政11(1799)年)といった旅行家や探検家が、今では失われたり位置を変えてしまったりした円空像を見た記録で知ることができます。それらの手がかりから、円空が蝦夷地を訪れた主たる目的は、有珠山噴火で被害を被った有珠善光寺の再興で、さらにその後、礼文華の小幌の窟屋などに籠り蝦夷地の山岳名を記した像を造顕したことが分かります。前述の現在有珠善光寺に移されている観音菩薩坐像も当初はこの窟屋に置かれていました。これらの像を造ったのは、どこが噴火してもおかしくない状況だった当時の蝦夷地の山々を鎮めるためだったのではないでしょうか。
ここで気付くのは、それらの記録がすべて寛政年間(1789~1801年)であることです。同時期は、寛政元(1789)年東蝦夷地(道東)で発生したアイヌ人の蜂起:クナシリメナシの戦いの後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として和人の定住の制限を緩和し、さらにロシアとの外交問題も生じたことから蝦夷地への関心が高まり、旅行家や探検家、さらには伊能忠敬による寛政12(1800)年の蝦夷測量などによって、その地理的解明が一気に進む段階にありました。寛文から寛政は130年ほどの隔たりがあり、円空は寛政期の探検家たちに「再発見」された蝦夷地の冒険家ということができます。
円空の山岳名が記された背銘のうち、「うすおく乃いん小嶋」(有珠山とその奥の院としての洞爺湖の小島)、「内浦山」(北海道駒ケ岳)には、併せて「始山登」「初登」と記され、それぞれ大噴火を起こした活火山に初登攀したことが分かります。そして、これらの頂きから見た山や、あるいはアイヌに聞いただろう蝦夷地の山の名が記された背銘のうち、「たろまゑ乃たけ」(樽前山)、「らいねん乃たけ」(雷電山)、「ゆうらつふみたらし乃たけ」(遊楽部岳)、そして現在は所在不明の像にあった「しりべつ」(尻別岳:羊蹄山の江戸時代の呼称)は、円空の背銘が当該山岳の文献初出と思われます。
今回、有珠山、内浦岳(信仰の中心となった砂原岳)を、円空初登攀当時の、火山灰が何mも積もった過酷な状況を想像しながら登り、また円空が滞在して5体の像を造顕した豊浦町礼文華小幌の窟屋で、ヒグマの恐怖と闘いながら一夜を過ごし、改めて北海道山岳のパイオニアとしての円空のすごさを垣間見ました。
(次回は4月1日掲載)
(『円空の冒険』諸国山岳追跡記―はじめに 下記からご覧ください)
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