歴史を知り 時の流れを楽しむ

大山だいせんは、『出雲国風土記」の国引き神話に「伯耆国なる火神岳ひのかみたけ」として登場する、文献にみえる日本最古の神山です。山頂からの雄大な眺めは、大山の裾野に仲びる弓ケ浜半島を引き綱にして能登から土地を引き寄せ、その綱を繋ぎとめた杭が大山だといういにしえの神話の世界をほうふつとさせます。

大山寺だいせんじの開創は西暦700年代。出雲国風土記、日本書紀よりも古い歴史を持っています。

大山

大山寺だいせんじ縁起

“天空はるかかなたの兜率天の角が欠けて大きな盤石が地上に落ちてきた。それは3つに割れて、ひとつは熊野山(和歌山県)になり、ひとつは、金峰山(奈良県吉野)になり、ひとつが大山だいせんになった。これにより、この山を角磐山かくばんざんと名づけられた。”
大山寺だいせんじは、山岳信仰の対象となる霊山大山に早くから山岳修行僧が入り「修行の山」として全国に知られました。
最盛期には3000人もの僧兵が居たとされています。

地蔵信仰と大山だいせん牛馬市

大山牛馬市

近世(慶長年間:1600年初期)の大山寺だいせんじは、幕府から寺領三千石を安堵され、西楽院を本坊として、南光院、西明院、中門院とその僧坊を支配する一山三院四十二坊の体制が確立しました。そして、牛馬の守護神や祖霊神の信仰と結びついて発展し、近世後期には、信仰圏を山陽 四国北部にまで拡大して隆盛を誇りました。
人々は延命をもたらす「利生水りしょうすい」 と地蔵菩薩のご加護を求めて大山だいせんに参詣し、五穀豊穣も祈願しました。地蔵菩薩と水とが密接に結びついた大山だいせん独特の地蔵信仰が、鎌倉時代以降、「大山だいせん信仰」として伯耆のほか山陰、山陽諸国にまで信仰圏を広げて行きました。

大山だいせんは今でも「大山だいせんさんのおかげ」として地元の人々に愛され、故郷の誇りとして親しまれています。

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